※店舗でのフェア開催期間や規模・特典ペーパー配布状況は、
各店舗で異なりますのでご了承ください。
※サイン本は終了いたしました。
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川野さんの第一歌集『Lilith』は「anywhere」、「out of」、「the world」と題された三部で構成されている。つなげると シャルル・ボードレールの詩集『パリの憂鬱』(原題:Le Spleen de Paris)収録の、「Anywhere out of the world(この世界の外ならば何処へでも)」という詩の題になる。人生を病院に例え、この世界の外について魂(mon âme)と対話する、ボードレールのこの詩のように、本書には「この世界」、つまりは社会への忌避と、ここではない何処かへの羨望がある。文学的智見と古語を駆使し描き出された世界は、美しく、煌びやかで、まさに「この世界」の外のようである。しかしながら、本書の魅力は、現実と乖離さえ感じさせるほどの美しい文体の奥に蠢く、社会への批判的視点である。
特に第三部「the wold」は、まさしく「この世界」で体験する痛みが詠まれている。例えば、表題の連作「Lilith」には、「大昔から男は狩人である」という言説による、性的役割分業の神話を鋭く批判する一首がある。連作「植物園」では、アセクシャルへの無理解な言葉や、性的マイノリティに対して投げかけられる質問に対する戸惑いが詠まれる。
歌集全体、特に「anywhere」、「out of」に収められた歌には、少女性というべき、独自の空気感が漂っている。少女性は、身軽に舞い、捉えようとしてくる強欲な腕からすり抜ける、自由な精神性とも言い換えられようか。少女性を有する者は、レッテルも貼られていない透き通った存在である。そのような自由で透明な彼女たちを、安直にラベリングするのが、「この世界」であり、それゆえ、少女たちは「この世界の外」に思いを馳せるのである。それでも、「この世界」を諦めず、透明な少女のまま生き抜こうとする川野さんの意志が、本書を貫く芯となっているのではないか。
個人的なことを述べると、本書にある歌の主体とジェンダー/セクシャリティが接近している私は、この歌集を読むと、「この世界」と折り合いがつかず負った古傷が抉られるような痛みをおぼえる。と同時に、胸の内に“The personal is political.”のスローガンを高々と掲げたくなるのである。透明な少女――つまりは自分自身――であることを諦めてたまるか!という闘志がみなぎる一冊。
(札幌本店・山田)
結晶のように精密に連なる言葉から降る、花、雨、夕日、天使。美しい、ということが美徳に従順なことだとするならば、何かを大切に思うということを根底から疑わねばならないでしょうか。
6つの短篇からなる本作は、美醜という暗黙の社会秩序によって排除される声たちの、密やかな手紙なのだと思います。それはSFや幻想文学といった文学ジャンルに近しくも、どれともつかない形で差し出された鮮烈な問いかけ、あるいは約束です。その声の主は人であるのか、この世のものであるのか判然とせずとも、しかし文字を声たらしめることこそが読むということなのだと、本作を通じて感じざるを得ませんでした。
“何から書き始めたらいいかわからない” ——。
おそらく数多くの人々の手によって書かれながら、読まれることなく消され、あるいは仕舞い込まれてきた言葉ではないでしょうか。収録作「卒業の終わり」はまさにこの一文から始まります。次ぐ一文は、“何を書いたら、あなたに届くのか”。自分とは遥かに違った状況を生きる人に宛てて書くとしたらこのような書き出しになるでしょうか。
主人公たちが生きるのは、ある病が蔓延しながらもそれを当然として秩序に組み入れた社会、そして病と社会から隔離されたユートピアのような学園生活。不思議な短編集の最後に置かれたこの物語は、私達の社会にあまりに似すぎています。私達、という複数形の主語を考えるのなら尚のこと。社会への洞察が深いほどに物語は暗礁に乗り上げやしないか、結末に一筋の光も無いのではないか、不穏と期待を漂わせながら物語はさらに深く深く…。
本作が類稀なるのは、繊細な描写と冷徹なまでの社会への洞察の一方で、登場人物一人一人がとても魅力的であることだと思います。こんな友人がいたなら、私は何か違っていただろうか。ここに響く声は、本当は、私自身が友人から受け取らねばならなかった言葉ではなかったか。読むほどに、かつて汲み損ねてきた話しの端々を問われるようで、読み終わらない。
(国分寺店・當麻)
川野さんが主に2013~2017年に執筆された小説を集めた掌編集。ファンタジーでありSFでありホラーであり、著者の奇想を余すところなく楽しめる。
全部で51の掌編・短編は、幼いころ標本のようにピンで留めて飾っていた御伽噺たちのように、心地よい無垢さと冷たさを感じさせてくれる。月の面に掘られる文様、天使の骨、飼われる星々、地上を統べていた薔薇……断片だけでもわくわくするような言葉たちが並び、読者を世界へいざなうのだ。
川野さんは言葉で幻想を描き、また現実を紡ぐ。ふたつは等価として扱われる。ややもすれば逃避などと言われ軽視されることもある「幻想」は、現実と同等の存在感で以て私たちの前にあらわれるのである。それは幻想の要素を何か現実の抱える問題になぞらえている、というような単純なロジックではなく、幻想を幻想として描きながら、現実を映し出している。
私は川野さんの作品について、もっと抑圧だとか、怒りだとか、そういった現実の観点からロジカルに語りたいと思いつつも、いつも幻想や奇想の世界観や言葉が好き、という感想に終始してしまう。ともあれ別に現実を捨て置いたとしても充分にこのお話を楽しむことができる――そういう点も、私がこの作品を大変気に入っている要因の一つである。
硬質な文章と夢の中を歩くような描写はとても音楽的である、と私は思う。静謐なようでいてノイズが通奏低音のように響く音響、時折諧謔みのある旋律が流れ、しかし解決せずに途切れるコード。生き物のように繰り返されながら変貌を続けるフレーズ、心地よい不協和音。こういった要素がひとつの音楽となり、そして編まれる組曲が、この『月面文字翻刻一例』という一冊の本なのだろう。
(ウェブストア・三宅)
あらゆる器官を持つキメラ、全ての動物・植物・鉱物の博物誌であるような身体。この言語によってのみ構成される想像不可能なイメージと、人間の輪郭・もしくは“私達”と呼び習わす主語との間の距離にひろがる、物語の疫病——。
翼、鉤爪、角、尾、鱗。かつて一人一人の身体に備わっていた様々な器官は病によって失われ、再び世代を経て異形の器官として現れ始める、その過程もまた病として語られていく。この奇妙な構成の物語は、ある資料館の一室、歴史と言葉を保存・管理する権力の内側から始まります。何が書かれるべきか、あるいは誰が読むべきかを選別する権力によって構想された全体像に走る亀裂、一人の生を一つの病として収集するアーカイヴからの流出として。断片化された複数の物語の内に共鳴する何者か、その感染経路を辿る旅路は、言葉と病にまつわる問いを複雑なままに描き出しているようです。
また、太古の病が回帰してくるというモチーフは、“先祖返り”という19世紀の科学/思想/芸術に影を落とす人種主義や優生思想の流行を連想させます。現代の私達であれば、こうした流行は時代の熱病であったのだと診断を下すことが可能でしょうか。このような問題設定を立てるならば、本作は肉眼より緻密に社会を映し出す鏡として読むことも出来るでしょう。
しかしこの物語の魅力はむしろ、奇妙な転倒、書かれたことによって生じた謎の方にあるのだと私は思います。
本作が鮮烈な声と魅惑的なイメージに縁取られながらも、何か飲み込み難くあるとすれば、それは歴史的な反省を伴う自己検閲によるものかも知れません。読むこと=欲望することから自らを遮蔽する物語の治療痕、内面化された禁書から流出する美しさとして装丁されたアーカイヴの病…。
一つの声と一つの物語との非対称的な関係を、物語の側から問うことの可能性を考えること。声なき声、イメージなきイメージという二重性を可能にする、書かれたものを媒介とした書き手と読み手の距離の技術、物語の疫病が保存するもの。それは恐らく〈七月の雪より〉、〈いつしか昼の星の〉、二人の主要人物の名が遠い過去より伝わったとされる歌/詩であることと無縁ではないと私には思えてならないのです。
『奇病庭園』は読者一人一人との間に様々な問いの入口を開くことでしょう。出口は無いかも知れません。しかし良い本との出会いというのは、ひとりではない、という月並みな望みを、最も理想的な意味で考え得るものにしてくれるものだと私は信じています。本作はそうした一冊なのだと思います。
(国分寺店・當麻)
幼少期からピンクを身に着けるのが苦手だった。頭から爪先まで外見にコンプレックスしかなかったので、「女の子らしい」とみなされる格好がどうしてもできなかった。中学校の制服がスカートであることが心底嫌だった。高校生になるまで髪はずっと短かった。そう、わたしは男の子になりたい女の子だった。
30代半ばになったいま、メイクもスキンケアも好きなものを見つけ、かなりの金額を費やしている。服はモノトーンしか選ばないが、あんなに嫌だったスカートも、長いものならよく履くようにさえなった。髪は相変わらず短い。外側はワンレングスの前下がりのショートボブ、内側はおもいきり刈り上げている。この髪型にたどり着いたとき、ようやくわたしはわたしになれた、と思ったのだ。男の子になりたい女の子であったわたしとともに生き、それでいてあの頃よりずっと自由で、装うことを全力で楽しんでいる。
川野さんがロリィタファッションに出会い、身に纏うまでの過程を読み、音を立てて心が回復していった。男性でも女性でもない、わたしはわたしだ、それを体現するひとがここにもいるのだ。なんて頼もしいのだろう。
恋愛も性行為も理解できない、嫌だ、と声をあげたっていい。してもしなくてもいい。この世ではうまく息ができないなら、現実を歪ませてしまえばいい。長年の憑きものが落ちたようだったし、自覚せずともずっとそうして生きてきたのだ。周りにどんな目で見られてもかまわない、自分にとって大切なものを守り抜こうと思った。
川野さんの言葉は、意志は、強い。その世界は変容し拡大してゆくが、決して揺るがない。たくさんの傷を負い、何度も首をもたげ、それでも真っ向から向き合った者だけが獲得できる自由がある。さあ、あなたは何になりたい?
(小田急町田店・田中)
“人間に器官なき身体を作ってやるなら、
人間をそのあらゆる自動性から解放してその真の自由にもどしてやることにな
るだろう”
アントナン・アルトーは狂っていたのか、いなかったのか。
そして、アルトーの言わんとすることは何なのか。その回答を得ることは最早叶わないにせよ、『Blue』という物語が、私の思考回路を経由して即座に接続したのが、アルトーの『神の捌きと訣別するため』であった。
神の創造した人間という容れ物―
どんな思考も感情も、結局それをどんな風に肉体という器に閉じ込めるかに帰結する。その輪郭からはみ出したものは間違ったものと分類され、見えないもの或いはなかったこととして処理されるか、排除の対象として抹消される。
神様のおままごとの配役はいつも決まっていて、役割を演じないものの舞台はどこにもない。
LGBTQや性差別の問題が人口に膾炙するようになって久しいが、『Blue』の姿勢は明確だ。
“人間とそれ以外を分け隔てる魂とか、正しい愛とそうじゃない愛を分け隔てる祝福とか、そういうの全部いらないよ”
これは川野さんの短歌にも通底するもので、その第一歌集となる『Lilith』は神代にまで遡るセクシャリティの救済を目指したものだと私は考えている。
『Blue』という物語に込められたメッセージは川野さんが豪奢なバーゴネットを被り、天高く剣を突き上げる勇壮な姿を想起せずにはいられないが、この作品にはそこに留まらない小説としての魅力が溢れている。演劇をモチーフとして、演じるものと演じられるものが重奏的にシンクロし混ざり合う。読者は幾つもの生を重ねて、登場人物たちと向き合い、童話だったはずの世界に隠された思念と電脳セカイに漂流する言葉が痛みを分け合うように絡み合っていく展開はストーリーテリングという観点から見ても実に秀逸で、いまもっ
て2024年マイベストの地位は揺るぎない。
本作がもっと多くの読者を獲得し、語られる世界を私は切に望んでいる。
(新宿本店・竹田)
中川多理さんの展示会に初めて訪れたのは2020年の「Till Dawn――暁に」だった。会場であるパラボリカ・ビスに一歩足を踏み入れた途端、一瞬で空気の色や温度が変わるのを感じた。
布擦れの音さえ躊躇われるほどの静寂の中で人形たちは、彼女たちの息遣いが感じられるほどの圧倒的な存在感で静かに私たちを待っていた。人形を見ているというより、人形に見られていたという感覚の方が近く、忘れられない思い出となった。
そんな異彩を放つ多理さんの人形一体一体に川野芽生が短歌を捧げたのが『人形歌集 羽あるいは骨』である。この歌集には、どれほどの言葉を紡いでも語り尽くせない彼女たちの想いがまるで美術品のように大切に収められている。思わずページを捲る指先も慎重になった。関節球体人形と鳥は骨(ビスク)の中が空洞というところに同質さを感じると『小鳥たち』のあとがきで多理さんは述べていた。人形は自分では動けない。だけど、鳥のように自由に飛び回ることを夢見ているのではないか。これはそんな彼女たちの祈りの歌集だ。
先日開催された中川多理展「白堊――廃廟苑於」の中で行われた川野芽生短歌朗読会「鳥葬声宴」では、『人形歌集 羽あるいは骨』と『人形歌集 骨ならびにボネ』を中心とした短歌が詠まれた。朗読と言っても、時に人形に語りかけるように、時に人形が川野さんを通して歌っているように見えた。人形と向き合う川野さんの一途な眼差しはとても真摯で優しく、その姿はなにか甘やかな秘密を覗いているようで、気が付けば息を殺して見入っていた。朗読によって歌は、また新たな表情を見せた。読む度に少しずつ彼女たちを知り、近づいていけるような気がした。しかし、それに終わりはなく決して触れることは出来ない。人形も歌も絶えず変化し続けている。永遠に届くことのない存在だから私はこんなにも惹きつけられるのだ。この歌集を何度も開き想い続けることで、彼女たちは動けずとも、鳥のように自由を手にしていけると信じている。
(吉祥寺東急店・徳光)
ジェンダー美術史を牽引した若桑みどり先生の講義録である本書には、気づかぬうちに囚われてしまっていた呪縛から、自身を解き放つためのヒントが詰まっている。本書が述べる通り、われわれに身近なプリンセス映画は、女性のステレオタイプ表象に満ちている。私たちは、このような物語に触れ、育ってゆく中で、いつの間にか「男らしさ」「女らしさ」に囚われてしまうのである。
本書は、刊行から20年経過しているが、今手に取ってもその内容は色あせていない。それはつまり、当時から変化した社会の根底に、20年前と同様の問題があるということを指している。2024年を生きる私たちは、プリンセスをどう捉え、またどう描き、伝えてゆくことができるだろうか。
(札幌本店・山田)
大雪の済州島。虐殺に関する本を出版した後に疲弊し切った作家は、生存者の母をもつ友人と再会する。病床で動けない友人に頼まれて、鳥に水をやりに家を訪れる。そこにもまた友人の姿がある。夢とも現実とも判然としないままに彼女たちは話し始める——。
川野作品と併せて何か読むとしたら、つまり川野作品を読んだ後でどんな読書を試みたいだろうかと考える。ハン・ガンだ、と私は思う。小説でありながら詩のように美しく、呼吸音まで聞こえてくる一文。ハン・ガンの作品を読んでいると、みずからの苦痛を生き延びていく時間に必要となる内省的な言葉と、歴史的な苦痛の存在する社会を知ろうとする際に手がかりとなるような経験に即した言葉は、異なるものでありながらも何か無縁ではない瞬間があるように思えてくるのです。そう思うことの是非が私にはまだ分かりません。しかし考えるために必要な言葉は、私にとってはハン・ガンとそして川野芽生の作品なのだと思うのです。例えば、息を飲むような美しい一文の内に、途方もなく生き延びられた時間が差し出されているのを感じた時に。
(国分寺店・當麻)
私もドラゴン(ほか幻獣たち)が大好きであるので、こちらをご紹介。ドラゴンは勿論悪者扱いされないので、安心されたし。
ちいさな陶器から生まれたドラゴンと一緒に住めるだなんて、こんな素敵なことがあるだろうか。ファンタジーであり宇宙的な世界観も含む本シリーズは、川野さんの幻想の世界観にも通じるものがあるのではないかと思う。
(ウェブストア・三宅)
わたしのことをもっとも好きで大切にできるのは、ほかの誰でもないわたしでありたい。
(小田急町田店・田中)
川野さんの文学性は幻想文学に根差しており、そのバックボーンを深く探っていく手がかりとして、山尾悠子さんのこの1冊こそ最良のブックガイドとなるのではないだろうか。
(新宿本店・竹田)
川野さんの静謐で澄み切った透明感のある美しさ、ケネス・モリスの花々が匂い立ち、交響曲が聞こえてきそうな壮大な美しさ。2人のように徹底された美意識が感じられる作品が好きだ。詩情溢れる文体で描かれる妖しく神秘的な世界は、手に取る度につい時間を忘れて耽読してしまう。これほど研ぎ澄まされた作品に出会えたことがただただ嬉しい。
(吉祥寺東急店・徳光)