紀伊國屋書店:【季刊 じんぶんや リターンズ】第2回 福尾 匠さんフェア開催!

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【季刊 じんぶんや リターンズ】第2回 福尾 匠さんフェア開催!

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「季刊 じんぶんや RETURNS」について

紀伊國屋書店新宿本店は2023年1月よりリニューアルオープンいたしました。また1964年3月23日この地に竣工されて、60年が経ちました。その間に多くの思いや、人、書籍、物語が往来し、現在の新宿本店となっています。

2004年9月、紀伊國屋書店新宿本店5階売場に「じんぶんや」という棚が生まれました。

そのアイデンティティは以下でした。

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  1. 月がわりの選者

「じんぶんや」に並ぶ本を選ぶのは、編集者、学者、評論家など、その月のテーマに精通したプロの本読みたちです。「世に溢れかえる書物の山から厳選した本を、お客様にお薦めできるようなコーナーを作ろう」と考えて立ち上げました。数多の本を読み込んだ選者たちのおすすめ本は、掛け値なしに「じんぶんや」推薦印つき。

2.月がわりのテーマ

人文科学およびその周辺の主題をふらふらと巡っています。ここまでのテーマは、子どもが大きくなったら読ませたい本、身体論、詩、女性学…など。人文科学って日々の生活から縁遠いことではなくて、生きていくのに案外役に立ったりするのです。

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「じんぶんや」は「第100講 この世界に人文学が必要です!」で2015年2月に一旦その幕を閉じました(実はそのあとも「じんぶんや」名でフェア等も実施しておりましたが)。しかしながら人文学の必要性は今も昔も変わらず、「生きづらい」といわれる世の中で、それでもなお生きるための智恵を書物の中に希求することは続いています。

そこで私たちは「じんぶんや」を再起動いたします。

「季刊 じんぶんや RETURNS」は、プロの本読みたちによる選書フェアです。

当フェアが、あなたが生きることへの一助となれば、これ以上の喜びはありません。


 

「季刊 じんぶんや RETURNS」第2回は 福尾 匠 さんによる選書です。

福尾匠さんは学生時代には当社グランフロント大阪店でもご勤務いただき、また2018年7月刊行の『眼がスクリ-ンになるとき』【フィルムアート社】(現在は【河出書房新社】で文庫化)にて「紀伊國屋じんぶん大賞2019 ─ 読者と選ぶ人文書ベスト30」第5位に入賞され、今年6月に博士論文を3年間かけてリライトされた『非美学』【河出書房新社】を上梓されました。11月にはエッセイ集『ひとごと』【河出書房新社】も刊行されています。

本フェアにあたり福尾さんからは「現代思想の現代性を取り戻すために」とコメントをいただいており、新刊『非美学』、『ひとごと』や文庫化された『眼がスクリーンになるとき』とともに、選書を楽しんでいただけますと幸いです。

福尾 匠 (ふくお・たくみ)

1992年生まれ。哲学者、批評家。博士(学術)。
初の著作『眼がスクリーンになるとき』ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社刊)が人文書読者を中心に熱烈な支持を集め(「紀伊國屋じんぶん大賞2019」第5位)、文芸誌「群像」での連載「言葉と物」、哲学を売る試み「哲学の店> フィロショピー」を催すなど、常にその動向が注目を浴びている。6月に刊行した『非美学――ジル・ドゥルーズの言葉と物』は、2021年3月に提出された自身の博士論文を約3年の歳月をかけリライト、確かな手つきで磨き上げられたドゥルーズ論=批評論。氏の“主著”と呼ぶにふさわしい力作となった。24年11月には、著者のデビュー以来の批評=エッセイを一挙収録した『ひとごと――クリティカル・エッセイズ』を上梓。

 

「現代思想の現代性を取り戻すために」

 

 たとえば現代美術、たとえば現代音楽、たとえば現代思想。これらのジャンルはいずれも、近代の四角張った形式主義へのカウンターというの側面をもっている。美術は絵画や彫刻という伝統的なジャンルを、そして美術館をすら飛び出し、音楽は調性を疑い、「曲」という単位の同一性を解体し、哲学は統一的な理論というものがすでにファシズムの萌芽なのだとでも言わんばかりに、拡散的な文芸実践に向かっていった。

 しかしいまや、これら現代三兄弟(べつに文学や料理を加えてもいいのだろうが)に、「無駄に小難しい」という以上のイメージが共有されているようには思えないし、そもそもこれらが文字通りに現代的なものだと思われているのかどうかすら疑わしい。

 とりわけ現代思想について言えば、ゼロ年代には主たるテクストが出揃っていた思弁的実在論を最後に、理論を旗印にした目立ったムーブメントは現れておらず、思想界は一方でSNS上でのトピックの高速回転に追いつくのに汲々としており、他方でドゥルーズ、フーコー、デリダといった固有名はもはや学界のなかに囲い込まれている。
明日には忘れられる話題に即応することが現代性なのだろうか。ドゥルーズらを哲学史のコーパスに押し込めることが彼らへの誠実な応答なのだろうか。僕はどちらについてもそうではないと思う。

 つまり、僕が考えているのは、哲学、あるいは人文学一般にはいまや、〈喫緊〉と〈悠久〉というふたつの時間しかないのではないかということだ。

 日々更新される〈喫緊〉を乗りこなすか、図書館に敷き詰められた〈悠久〉のなかで細々とした釈義に勤しむか。学知の「アウトリーチ」が前者の正当化のために後者を持ち出すことであるなら、それは権威主義以外の何ものでもないだろう。

 だとすれば、われわれに必要なのは、ミクロ/マクロな時間に寄りかかることなく、「考える」ということのサイズ感を回復することであるだろう。そして「現代性」とは、そのような時間のことを指しているのだと僕は思う。新しいトピックを論じたら新しい本になるわけではない。世界はそんなに簡単ではないはずだ。

 今回セレクトした本は、いわゆる「フランス現代思想」の流れにあるものと、現代日本における「批評」の流れにあるものとを主たる軸として選ばれている。ふたつはたんに理論と応用という関係にあるのではなく、前者は理論を作ることの実践性を示し、後者は実践が理論の変形に跳ね返ることを示すというように、両者のあいだには交差的な関係がある。

 現代思想の現代性を取り戻すこと。それは、たんに新たなトピックを持ち込むことでもないし、たんに新たな理論をぶち上げることでもない。地表には古い地層と新たな地層が並んで表出しているように、現代とは遅かったり速かったりする無数のタイムラインが共存する時間を指し示している(だからこそわれわれはたとえばプラトン哲学や明治期の国語政策の現代性を考えることができる)。そして批評とは、そのような時間に絡め取られる危険と、あくまでそこに内在しつつ新たなパースペクティブを開くチャンスとが背中合わせになった空間に飛び込むことでないとしたら、それが真にクリティカルなものになることなどないだろう。

 ここに並んだ30冊はそれぞれ、ここまで述べてきたような現代性を実演するドキュメントである。しかしその現代性が起動されるのはつねに、われわれがわれわれ自身の現代性において読むことによってのみだ。それがたんなる応用ではないことは、もう繰り返す必要もないだろう。

 

 

【フェア開催期間】
2024年12月13日(金) ~ 2025年1月23日(木)

【フェア開催場所】
紀伊國屋書店新宿本店 2階BOOK SALON

※現在イベントも検討中です、決まり次第本ページでお知らせいたします。

→紀伊國屋ホールにて、「紀伊國屋じんぶん大賞2025大賞」、「第2回じんぶんやRETEUNS」にあわせたトークイベント開催決定!ぜひリンク先よりお申し込みくださいませ。
〈第322回新宿セミナー@Kinokuniya〉ジル・ドゥルーズ生誕100年 & 紀伊國屋じんぶん大賞2025大賞記念 & 第2回じんぶんやRETURNS開催記念 千葉雅也×福尾匠 トークイベント2025年2月4日(火)19:00~/紀伊國屋ホール)

※「季刊 じんぶんや RETURNS」第3回は 岩川 ありさ さんの予定です。

福尾 匠さん 著書

哲学を「概念の創造」として定義したドゥルーズにとって、芸術を通して概念を創造する批評とは何だったのか。ドゥルーズに伏在する「言葉と物」の二元論から、今世紀の日本の批評を導いてきた「否定神学批判」の限界に迫る、俊英による真の現代思想がここに!

すべてを「自分ごと」として考えることなどできないのなら、なぜ「ひとごと」は悪いことなのか。他人との距離はいかにしてポジティブなものになるのか。『非美学』の若き哲学者による渾身の批評=エッセイ集。

ドゥルーズ哲学の創造の原理が、『シネマ』の緻密かつ明快な読解から明かされる。映画という芸術の新しさは、いかにして哲学の新しさへと跳ね返るのか?ドゥルーズに伏在する「言葉と物」の二元論から、今世紀の日本の批評を導いてきた「否定神学批判」の限界に迫る、『非美学』の著者のデビュー作が文庫化。黒嵜想、山本浩貴(いぬのせなか座)との解説座談会を追加収録!

福尾 匠さん 共同訳書

ドゥルーズは芸術との格闘によって哲学を構築した。ドゥルーズの哲学における概念の創造に、芸術はいかにして重要な役割を果たしてきたのか。初期から最晩年まで取り組み続けた芸術をめぐる思考の変化とともに、その概念の生成の過程を明らかにする。

第2回 福尾 匠さん選書リスト

ドゥルーズ自身によるドゥルーズ入門。本書はインタビュー集であり、順番を気にせず気になった記事から読むといい。僕のおすすめはまず「哲学について」を読むこと。拙著『非美学』のアイデアの中核になった話が出てくる。

何をしたら何かを「言った」ことになるのか。生成AI、ボット、炎上、 フェイクニュース、陰謀論の時代にこそ立ち返りたい言葉と社会についての原理的考察。

ドゥルーズといえばリゾームで、リゾームといえばすべてがすべてにつながる全面的接続の世界である。千葉が転覆するのはこの典型的なドゥルーズ像であり、ドゥルーズにおける「切断」の重要性を浮かび上がらせるとともに、「つながりすぎ・動きすぎ」の現代人に対する倫理的指針を提示する。

千葉雅也といえばいまでは小説とリーダブルな哲学書の印象が強いが、本書にはキレキレの評論とエッセイが収録されている。本書を読むたびに、批評はカッコいいものなのだということを再確認する。

本書の刊行から26年が経っているが、いまだに「誤配」や「郵便的」といった概念は、東の実践を貫くものとして多方面で使われ続けている。これほど耐用年数の長い概念もなかなかないだろう。拙著『非美学』では東に始まる「否定神学批判」という論脈(千葉雅也と平倉圭もそこに属するものとしたうえで)の先に進むことを試みた。しかしそれはたんなる「乗り越え」ではなく、むしろ「書き換え」である。その成否は読者諸氏の判断に委ねられている。

本書は観光という経済的で「不真面目な」営為の、政治という「真面目な」領域にはない社会的なポテンシャルを探究する。たんに移動することの意味は、コロナ禍を経てなおさら問いなおされるべきものになっている。

文芸批評から出発した著者がなぜ、これほど「哲学的」な本を書くことになったのか。それは批評における「他者」の問題と切り離すことができないだろう。文芸誌での連載をもとにした本書にはその苦闘の痕跡が生々しく刻まれている。

近代とは何だったのか、ポストモダンとは何かということについて、本書ほど「構造」的に論じきったものはいまだに現れていないだろう。しかし本書のもっとも気前のいいところは、その構造から解き放たれる力のありかを、読者の側に託していることだ。

天皇制について、戦後の日本について、ポストモダン社会について、いまやこうした、誰にとっても重要であることがわかりながら、誰も積極的には総括しようとしない事柄について、ふたりはつぎつぎに豪快に料理してみせる。内容的にもまったく古さを感じさせない。

「ゼロ年代批評」という言葉で僕がまず思い浮かぶのは、東浩紀とこの菊地&大谷コンビの仕事だ。ひとりの人物の研究で一冊の本を書く「モノグラフ」という形式が、ここまで拡張的なものになりうるのだという痛快さに励まされて、僕は『非美学』を書いた。

同上

かたちは思考する、が、かたちはそのかたちだけで思考するのではない。ひとつのかたちを見る「私」もまた固有の生物学的−歴史的−社会的なファクターの織りなすひとつのかたちであること、しかもそれが、自分が見たものによって変形=解体されうるものであることの危うさに接近することで初めて、かたちの思考は起動される。

批評の面白さはそのまま描写の面白さであると思う。描写パートと考察パートが分割された文章ほど退屈なものはない。描写することがそのまま思考となるような、批評の快楽が本書には詰まっている。

食をどう批評するか。それはたんに、味覚というものの記述の難しさの問題ではない。素材、調理法、季節、他の皿や飲み物との取り合わせ等々、仕入れからサーブまでのあいだで料理人が苦心するのと同じだけの異質なファクターの絡み合いに、批評は向き合わなければならないだろう。本書はきわめて軽やかなエッセイという装いのもとで、そのようなアクロバティックを達成している。

グローバル化とは、世界を球(globe)として捉えることであり、西洋的なグローバル化のロジックを「全球化」として見立てたうえで、本書はそれと異なる「道」のグローバリズムを構想する東洋の思想家たちを渉猟する。それは「現代」というものを把握するための新たなパースペクティブを拓く手がかりとなるだろう。

言語表現を中心とし、出版やデザイン、ワークショップ、展示、パフォーンマンス等をおこなう集団、「いぬのせなか座」を主宰する山本浩貴による初めての単著。これまで彼が書いてきた批評系の文章が膨大に収録されており、それぞれの記事はきわめて高密度な文体で書かれているが、そこに通底するテーマ、あるいは意志のようなものは明確だ。表現することを「現実」や「実社会」から切り離すのではなく、それ自体を生きる手立てにすること。

ラトゥールは「アクターネットワーク理論」の提唱者として知られる社会学者・哲学者だ。その理論はひとことで言えば、アクターを人間に限定せずに社会を考えるためのものだ。われわれが生産、労働、コミュニケーション、表現といった様々な行為を通して社会のなかで関わるとき、そこにはかならず、道具や生産物や環境といったかたちで人間以外のものが関与しており、それなしには特定の社会的関係はなりたたない。とすれば、われわれは「社会」の定義をも、人間の外へと拡張しなければならないだろう。

新聞と写真に代表される、言葉とイメージの複製がばらまかれる世界の誕生を目撃した哲学者による、これからの歴史と真理の探究。

フランス現代思想は哲学の潮流であると同時に、「批評理論」としても大きな影響力をもった。日本においてはニューアカデミズムや『批評空間』がその傾向を担っていたが、本書によてその拡張性が何に由来するものであったのか考えることができる。それは人文知というもの、とりわけそのうち「理論理論したもの」の地位がかつてなく下がっているいまこそ振り返ってみるべきものだろう。

ハイデガー以降の20世紀の哲学は、客観的真理を洞察することをおのれの任務とするのではなく、「読むこと」を哲学することの条件としてきた。本書はそうした条件についての最良の研究のひとつであるだろう。

何かを「言う」ことは、たんに文法的な規則に従い、辞書的な意味で単語を並べる以上のなにかを「する」ことでもある。約束、質問、命令、宣言といった行為は、言葉の外にある行為を報告したり記述したりすることではなく、特定の言葉を発すること自体がそうした行為を行うことである。「走る」と言わなくても走ることができるのに対して、「約束する」と言わずに約束することはできないように。言葉に内在する行為の発見。この発見が20世紀後半の言語哲学を方向付けた。

20世紀の美術は、絵画や彫刻といった伝統的ジャンルの解体・再編成と写真や映像、インスタレーション・アートといった新たなジャンルの勃興が並走するプロセスを辿った。しかしいまやむしろ、本書が提唱する「ポストメディウム」的な状況は前提であり、「なぜこのメディウムを?」という問いに向き合うことこそが重要であるように思われる。

あなたが美術館に行くとき、作品を眺めている時間と、その脇に貼られた作者名・タイトル・制作年・メディウム・解説等が記されたキャプションを読んでいる時間と、いったいどちらが長いだろうか。本書は絵画にタイトルがつけられるようになったのは19世紀以降であるという事実から出発して、現代にまで続く絵画と言葉の微妙な関係の綾を解きほぐしていく。

たとえばいま、何の絵を描けば「現代」を描いたことになるだろうか。しかしそれが、キャンバスに油彩した具象画であるなら、そのこと自体の現代的な意味もまた問い返されることになるだろう。なにをいまさら?と。シュタイエル自身も映像を用いたインスタレーション作品を制作するアーティストだが、本書に収められた彼女の論考は、現代美術の現代性が変動する社会と美術に固有のテクニックや制度との絡み合いに迫っている。

「ChatGPTの頭の中」で起こっていることは、われわれの頭の中で起こっていることでもある。もとより脳の神経ネットワークをモデル化するところから出発したAIはいまや、コンピューターが手のひらサイズのスマホになったプロセスを高速で反復するように、われわれに身近なものとなりつつある。その基本構造を解説する本書はむしろ、われわれが頭の中(=脳)のみに生きるのではない存在であることの意味を考えさせてくれる。

われわれの社会は、あると言えばあるし、ないと言えばないようなものなしには立ちゆかない。国家だってそうだし、愛だってそうだし、お金だってただの紙切れだし。われわれは簡単に「国境のない世界を想像してごらん」と言うことができる。しかしだからこそ、現に国家があることになっていること、その強固さこそがひとつの謎として立ち現れるのであり、本書は精神分析理論を手にその謎の構造に迫る。

ちょっとしたマルクスブームが続いているが、ネグリ&ハートの『帝国』を代表とする、「ひとつ前のマルクスブーム」をこそ振り返ってみるべきだと思う。的場によるマルクス入門はフランス現代思想との接続という意味でも、僕のような人間には親しみやすい。

「文化人類学」という言い方にあらわれているように、かつて人類学は非西洋社会の「文化」を対象としていた。それは国が変われば文化も変わるという「多文化主義」を背景とした考えだが、本書はそれをひっくり返して「多自然主義」を標榜する。一様な自然のなかに多様な文化があるという西洋−科学中心的な見方に対する強力なカウンターだ。

「リスク」とは不思議なもので、それはまだ現実ではないのに現実的な効力をもつ。ポストモダン社会が抱える問題は、つねに自然と社会を、現実と統計的リスクをまたいだ複合的なものとして立ち現れる。中国の内陸でコウモリから人間に感染したウイルスがパンデミックと同時にインフォデミックを呼び、現実のダメージとまだ実現していないリスクは混ぜ合わされ、世界全体が一挙に混乱に巻き込まれる。1980年代にすでに「リスク社会」を論じた本書にいまこそ立ち返るべきだろう。

研究にせよ批評にせよ制作にせよ、自分で問いを立てて、調べ物や試作を通してそれを洗練させるプロセスはきわめて重要なものである。本書は「論文の書き方」で、一般的な、あるいは業界内的な予定調和に寄りかからない自分の問いを組み立てるための心得を紹介する。それはSNSを開けば無数の「問題」が押し寄せる現代にこそ必要なテクニックだ。

精神分析という、20世紀世界の知のひとつの強力なモデルとなった、医学とも心理学とも哲学とも同一視できない特異な理論−実践は、いまやほとんど古文書の類いになっているかに見える。しかしフロイトによる「無意識」の発見、ラカンによるその構造的洗練は、たんなる教養としてではなくいまだに「ゼロから始める」に値するものだ。

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