新進気鋭の作家が語る、演劇の現在。
作品から読み取れるキーワードとともに、作家たちの想像力を解き明かす!
国際的な活躍を続ける舞踏カンパニー・山海塾を率いる著者が、自らの生い立ちから舞踏家に至り海外公演を展開するまでの道のり、さらには創作活動や作品に込めた想いを縦横に語る。
踊ることとは何か、生死・時間・身体とは何かという、普遍性を湛えた人間の内的本質に迫る、待望の日本初エッセイ。
いままで歩いてきた道、そしてこれからも歩き続ける道を見つめつつ己の中で繰り返す、その果てなき問答とは―。
Le prologue
Forum des Halles
Festival mondial du Th´e^atre Nancy
Kinkan Shonen
Les queues des thons
Carr´e Silvia Monfort
Siena
Festival d’Avignon
Le paradis et l’enfer
D´efoncer la porte!
L’´epilogue―Le commencement des tourn´ees sans fin
希代のアヴァンギャルドとして、同時代の数多の文学者・芸術家を熱狂の渦に巻き込んだ不世出の舞踏家にして、暗黒舞踏を世界の舞台芸術“Butoh”に昇華させた肉体の思想家、土方巽の活動の鮮烈な全体像が甦る。
舞台記録映像と語りを収録。
戦後日本の前衛芸術「舞踏」はどのように受容され、発展したのか?
1970年代の終わり、フランスの人々は、日本の前衛芸術「舞踏」を大きな衝撃をもって迎え入れた。
大野一雄、カルロッタ池田、山海塾、室伏鴻、笠井叡、そして土方巽……多くの日本人ダンサーがフランスで〈発見〉された。
本書は、舞踏がその上陸から今日まで、この地の人々を魅了しつづけている歴史を跡付けている。
舞踏の伝播は、あらゆる「誤解」とともに、ここではないどこかへ、日本への欲望を引き起こしながら、コンテンポラリーダンスの領域に途方もない影響を与えたのである。
フランスのジャーナリズムと〈身振り〉の分析を駆使して、美学と文化史の観点から舞踏を論じることは、現代の舞踊史を読み直すことを意味する。
「ジャポニスム」の歴史、ドイツ表現主義とのつながり、舞踏に関係づけられるヒロシマの記憶……舞踏をめぐるダイナミズムを明らかにし、身振りを介した日欧の歴史を亡霊のごとく浮かび上がらせる、革新的な日本文化受容論。
貴重な写真資料を多数掲載。
“子殺し”のイメージで知られる「メディア」から始まり、暗黒舞踏の逸脱的な身ぶりによって、「わたし」以前の、わたしならざるわたしの身体の回復を目指す、闇の言葉のダンス。
ギリシャ神話の「メディア」をもとに、暗黒舞踏から、誕生以前の身体のダンスまで遡る。
ゴンクール賞作家であり、数々の戯曲を手がけるキニャールによる、闇の舞踊論。
文字通り物質としての肉体そのものからあふれ出るパワーが生み出す相互作用の秘密を,自らの身体感覚を通して分析する新しい人類学。
著者はダンサーでもあるアメリカ人人類学者である。
彼女は何故はるばる海を渡り暗黒舞踏の何を明らかにしようというのか? それはまさに,土方巽が言う「「光栄ある肉体の反乱」,すなわち脆弱な「社会化され秩序化」されたものではない,文字通り物質としての肉体そのものからあふれ出るパワーが,舞踏家と舞踏家,舞踏家と観客,観客とその周囲の何かと作用し合いあらたな身体の地平を拓く,その相互作用(アフェクト)の秘密を解き明かしたい,というパッションからである。
自ら暗黒舞踏の稽古を受けながら,稽古の現場で作用し合うもの,生成されるものを身体経験として受け止め言語化し分析する──他ならぬ自らの身体の奥底にフィールドを見いだした,新しい人類学。
舞踏する言葉!舞踏家たちを書き、舞台や対話を共にしてきた。
言葉と身体のキセキ!
40年間、フランス、チェコ、ギリシャで踊り、教え、思索する舞踏家が身体と舞踏について徹底的に語る。
官能と戦慄、抑圧と解放。
舞踏とポストモダン。
先鋭化する身体表現。
セクシュアリティ。
からだのポリティクス。
コンテンポラリーダンスとは?
ドゥルーズ=ガタリを哲学的に再構成し、スピノザ的実体にかわって器官なき身体を基底にしたかつてない思考へ迫る絶後の哲学。
マグマのような苛烈な文体によって、唯物論哲学を大胆に書き変えた名著の新訳。
精神分析批判から資本主義と国家への根底的な批判へ向かい、そのための「分裂分析」をうち立てた革命的な思考はいまこそ「再発見」されなければならない。
欲望機械/器官なき身体とともに、最も危険でカオティックな思考の実験がはじまる。
無意職論、欲望論、精神病理論、身体論、家族論、国家論、世界史論、資本論、貨幣論、記号論、芸術論、権力論…のすべてであるとともに厳密な哲学の書でもある奇跡的な著作の新訳。
「器官なき身体」とともにあらゆる領域を横断しつつ、破壊と生産をうたう「分裂分析」は、来たるべき思考と実践の指標であり続けている。
ペストと同じように、演劇は悪の時間であり、黒い力の勝利である―「残酷の演劇」を宣言して、演劇を根底から転換させようとしただけでなく、思想・芸術に決定的な影響を与えたアルトーの代表作を第一人者が鋭意の新訳。
アナーキーとしての生のためにすべてを破壊したアルトー、その思考と実践を炸裂させた20世紀で最も重要な書が明晰にしてカオティックな訳文によっていまふたたび世界をゆるがす。
言語が身体から切り離される以前の状態まで立ち返って心と体と言葉を考えようという真摯な姿勢に感銘を受ける。
難解ではあるが、重要な問題提起が為されている。
●知識の表現
知識はいかに表現されるか。
知識にかたちを与え、共有可能なものにすることを「表現」と呼ぶ。
言語的、グラフ的、動的、静的など、様々な表現の形態と、表現される知識の「相性」を研究する表現の科学は、したがって、知識の科学の本質的な構成素である。
知識とは何か。
どのような種類があるのか。
いかに表現されるのか。
いかに伝達されるのか。
人工知能、認知科学、脳科学の成果を結集しても、こうした疑問に対する最終的な答えはまだ出ていない。
知識とそれを取り巻く現象の体系的な理論はまだ存在しない。
だから、単なるキーワードとして、一時のはやり言葉として、「知識」を終わらせないために、知識のあるゆる実践の分析と、そのメカニズムの体系的理解が要求されている。
新しい演劇はどこにあったのか──
テン年代日本演劇シーンをつぶさに目撃してきた批評家・佐々木敦による、初の演劇批評集!