本のない人生なんて。
世界最大のニューヨークブックフェアの裏側から見る
本を探し、本を売り、本を愛するブックセラーの世界。原題:THE BOOKSELLERS/D・W・ヤング監督作品/アメリカ映画/2019年/99分/16:9/5.1ch
字幕翻訳:齋藤敦子 配給・宣伝:ムヴィオラ、ミモザフィルムズ
内容:
世界最大規模のニューヨークブックフェアの裏側から、ブックセラーの世界を捉えたドキュメンタリー。
業界で名を知られるブックディーラー、書店主、コレクターや伝説の人物まで、個性豊かな人々が登場。
社会の多様化やデジタル化で本をめぐる世界は大きく変わったが、本の魅力は絶対になくならない!
全国順次公開中
2021年4月23日(世界 本の日)より、映画『ブックセラーズ』が順次劇場公開中です。ブックセラーズ、直訳すれば「本を売る人たち」ですが、もちろん彼らは単に本を売るだけではなく、<本を探し、本を売り、本を愛する>人たちです。本作のキャッチコピー「本のない人生なんて。」は私たちにも共通する世界観です。
このページでは、紀伊國屋書店が主に学術機関向けに取り扱っている古書・稀覯書をご紹介いたします。
紀伊國屋書店書籍・データベース営業部 yk01@kinokuniya.co.jp
経済・社会・教育
十二歳のベンサムがオクスフォード大学クイーンズ・コレッジに入学したのは1760年、令名高かったブラックストンの講義を聴講したのは、学部生の課程を修了した1763年以降のことでした。彼が教授職を退いたのは1766年、同じ年に学位を得たベンサムは翌年オクスフォードを離れています。晩年の回想によれば、講義に出席したものの「聴いた内容を省察することで頭がいっぱいになり、ノートを取るどころではなかった。私にはすぐに彼の自然権に関する見解が誤謬であることがわかった」。とはいえ数年後、ベンサムが本格的な法研究に着手した際に起点となったのはブラックストンでした。批判対象といえども、ベンサムが Commentaries から摂取したものは少なくありません。
1774年友人ジョン・リンドから Commentaries 批判の草稿を託されたベンサムは、独自の考察に着手し、A Comment on the Commentaries と題する逐条的な批判を執筆しましたが、完成には至りませんでした。『統治論断片』はこの A Comment 執筆の副産物として生まれたもので、1775年末に成稿したと考えられます。自然法とコモン・ローを徹底して批判し、実定法による法改革を提唱したベンサムの画期的な法思想が本書にはじめて示されたばかりでなく、十九世紀の政治・社会思想に大きな影響を及ぼした功利主義がここに唱道された点でも、『統治論断片』は記念碑的な処女作といえるでしょう。「最大多数の最大幸福が正義と悪との基準である」という功利主義の原理はまさに本書の巻頭に呈示されています。
バウリングによれば初版は五百部の刊行。これと同年ダブリンで海賊版が上梓されています。約半世紀後の1823年に刊行された第二版は、注記に若干の付加がある以外は同一の本文。この第二版のためにベンサムが執筆した新たな序文は、(彼の少なからぬ他の著書と同様に)印刷はされましたが公刊には至りませんでした。
同時代の牛革装。
デュパンの英国渡航計画は第一義的にこの港湾研究をさらに進めるべきものでしたが、彼の計画書には英国の産業革命が及ぼした諸工業の機械学的進展についても観察を行う旨が記されています。ドランブルと数学者ジョゼフ・フーリエの海軍省への働きかけによって実現した彼の視察旅行は、1816年の八月から約半年間に及びました。英国海軍や東インド会社の港湾施設をはじめ、病院や刑務所、運河、工廠はもとより民間の工場にまで足を運び、複数回訪れて詳細な知見を得た場所も少なくありません。つい最近まで敵国だったフランスからの見学者に対し、英国の各施設は門戸を閉じることなく、設備の構造や将来の計画を含むすべての質問に対して腹蔵なく回答を与えています。
デュパンはこの旅行の豊富な成果に満足することなく、帰国後直ちに第二次の渡航を計画しました。1817年五月末に出発し、翌年二月に帰国したこの旅行では、まずロンドンの王立学会を訪れた後、ジョン・レニーが設計したテムズ川をまたぐ二つの橋、サザーク橋とストランド橋(ウォータルー橋)とを見学。その後英国各地の港湾都市を視察すべく、キングストン・アポン・ハルからイングランド東岸を北上し、サンダーランド、ニューカスル、ベリックをへてスコットランドに入りエディンバラへ。さらにアバディーンまで北上すると、インヴァネスからカレドニアン運河を経由してブリテン島西岸に出ます。ダンバートン、グラスゴー、カーライル、リヴァプールを視察したのちホリーヘッドからダブリンに渡りました。ダブリンでは足を骨折したため一ヶ月以上を棒にふったものの、帰国後ダンケルクに戻って四ヶ月の滞在許可を求めたのは、視察の成果を早々にまとめるためでした。
二度の渡航報告が最初に活字となったのは、Mémoires sur la marine et les ponts et chaussées de France et d'Angleterre, contenant deux relations de voyages faits par l'auteur dans les ports d'Angleterre, d'Ecosse et d'Irlande dans les années 1816, 1817 et 1818 (Paris: Bachelier, 1818) です。ガスパール・ド・プロニー宛の献辞は1818年六月の日付が付されていますが、そこに示された記録は第一次・第二次ともそれぞれ五十頁程度に過ぎず、旅程に沿ってごく手短かな報告を呈示したに過ぎません。またこれと前後して Procès-Verbaux des Séances de l’Académie des Sciences に三種の報告が掲載されたものの、いずれもわずか数頁。
デュパンはその後も1819年、1821年、1822年、1824年の四度にわたって英国を視察し、六次に及ぶ渡航から得られた知見は三つの大著にまとめられました。Force militaire de la Grande-Bretagne (1820) と Force Navale de la Grande-Bretagne (1821)、それにこれらをまとめて1824年 Voyage dans la Grande-Bretagne として再刊した際に新たに加えられた Force commerciale とがそれにあたります。また1823年に公刊された Système de l’administration britannique en 1822 も一連の著書に加えてよいでしょう。デュパンが本来の視察目的である港湾施設や公共建築だけでなく、商業や社会制度、労働問題、学芸など多面にわたって英国の現状をつぶさに観察し、その長所をフランスに齎そうとしたことが明らかになります。
とはいえこれらの大著の中から個々の渡航記録が再現できるわけではなく、デュパンの視察を時間軸に沿って詳細に記録する上掲手稿本の存在は貴重なものといえるでしょう。第二次渡航の最後の地であるダブリンについては記述がないものの、ロンドンからホリーヘッドまでの旅程をたどりながら、各地での調査記録を収載します。本文四百頁余を含む全文が写字生の手になる浄書であり、この手稿本は恐らくデュパンが関係者に提出するため作成されたものと推測されましょう。
同様の写本は現存稀れ。第一次の渡航報告書についてはパリ土木工学校に所蔵されている (MS 3000) ほか、ハーヴァード大学ベイカー図書館 (K98.65) にも確認されますが、第二次渡航については上記の刊本と同様、ごく簡略なものしか知られていません。
アムステルダムのレーのもとで初版四千部が刊行にいたる、その主たる経緯は1925年に刊行されたダニエル・モルネの校訂版で明らかにされていますが、さらなる詳細についてはマケクランの書誌を参照。部数の半分はパリに送られ、その販売にあたったエティエンヌ=ヴァンサン・ロバンはまた、マルゼルブの意向をうけた検閲版の出版をも行っています。今日「ロバン版」と呼ばれるものがそれ。本書の爆発的人気は初版やロバン版、海賊版・偽版を含め、1761年の刊記をもつ版だけで十一種類におよぶ事実に伺えましょう。
初版の第一巻最後の折丁には誤植の有無によって二種の刷りが区別されますが、上掲は最初の形態。なおかつての書誌類は、第一巻に二葉からなる誤植訂正一覧を含むとしましたが、この誤植表はパリのデュシェーヌが印刷したものと考えられ、マケクランによればパリの国立図書館本にしか見られません。またグラヴロの銅版挿画十二点を含むものも現存しますが、これもデュシェーヌの上梓になり、レーの初版本と書誌的には無関係。
『新エロイーズ』初版本は二種類が区別され、タイトル頁と本文最終頁の装飾にヴァリアントが存在します。ガニェバンならびにマケクランの分類でA種とされるもののタイトル頁には、第一・第六巻のみペトラルカの詩句(ソネット二百九十四番から)をあしらった銅版装飾が置かれ、第二巻から第五巻は簡素な活版の装飾模様。B種では第一巻・第六巻はA種と共通ですが、第二巻から第五巻については各巻異なる銅版のヴィニェットがタイトル頁に見られます。また第一巻から第五巻の本文最終頁にB種では各巻異なる銅版装飾が置かれていますが、A種では同じ箇所に活版の装飾模様が見られます。
B種の本文末尾に見られるヴィニェットのうち、第一巻のそれは1737年、第二巻は1729年、第三巻は1728年の日付が入っており、いずれも製作年代が三十年以上遡るものであることがわかります。当時の印刷慣習からすれば、印刷の途中で簡素な活版装飾からより手間のかかる銅版装飾に変更されるとは考えにくく、むしろ最初に使用していた銅版装飾に何らかの不都合が生じたため活版装飾に代えられたと推測するのが自然でしょう。かつてデュフールならびに(モルネの校訂版からすでに四半世紀を閲しているにも関わらず)セヌリエがB種をもって初版としたのはその意味で当然と思われます。
現存する書簡から、著者ルソーと出版者レーとの間に校正刷が往復するのと同時に、『新エロイーズ』に加えられるべき装飾が論点となっていることが確認されます。ルソーはレーが提案したヴィニェットを拒否し、現在A種に見られる装飾で決着したのは事実ですが、現存する二種の先後関係についてはマケクランも言及していません。
同時代の牛革装。稀少、B種はことに稀れ。
バゼドウ《フィラレティー》初版 税込 ¥176,000
バゼドウ《組織的教育》初版 税込 ¥165,000
フレーベル《人間の教育》初版 税込 ¥330,000
ゴッセン《人間交通の諸原理》第2版 税込 ¥990,000
オクタヴィア・ヒル《協力者への書簡》初版 税込 ¥264,000
矯正院・養育院連合《売春婦矯正活動の覚書ならびに要注意人物一覧》 税込 ¥220,000
ルソー《学問芸術論》初版・ほか 税込 ¥550,000
シエイエス《特権論・第三身分とは何か》ほか 税込 ¥330,000
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哲学・宗教・古典
女王メアリーのカトリック回帰により、多くのプロテスタントが英国から大陸に逃れ、その中心地のひとつであったジュネーヴでは1560年新たな翻訳が生み出されました。ジュネーヴ訳はエリザベス朝英国でも夥しい数の版が刊行され広く普及しましたが、エリザベス女王はこれを公認することがありませんでした。大聖書に代わるべき翻訳として1568年に初めて公刊された「主教聖書」は、大主教マシュー・パーカーの主導のもとに進められた改訳であり、国教会の主教たちが分担して大聖書本文の改訂にあたりました。独訳やラテン訳からの重訳であるカヴァデイルの旧約は原典訳に置き換えられたほか、新約にも多くの斧正が加えられています。
主教聖書は初版刊行以後、二折版が1602年まで十種、四折版は1584年まで七種の再版が登場しています。ハーバートによれば1569年の最初の四折版では主として旧約に、1572年の二折版第二版では新約に更なる改訂が施され、これらの本文が後の版に継承されました。また恐らく旧約詩篇の原典訳が直ちに教会での朗誦に馴染まなかったためか、二折版第二版においては大聖書の詩篇本文も併せて収載され、さらに後の版では大聖書の詩篇のみが収録されるようになりました。
ジュネーヴ訳が席捲する出版市場が大きく変わることは無かったとはいえ、ほぼ数年置きに必ず主教聖書の新版が刊行された事実からは、公認聖書としての需要が常に途絶えることが無かったことが伺われます。1587年七月の大主教ホイットギフトの書簡は、公認聖書が破損している、あるいはまだ備えられていない教会が少なからずあり、大きな教会のために二折版を、小さな教区には四折版を備えるべく再版が進められたことを明らかにしています。当時の人々が読んだ聖書はジュネーヴ訳だったにせよ、教会で信者が耳にしたのは主教聖書でした。1604年に新国王ジェイムズが欽定訳の勅命を下したため、主教聖書の再版は終りを告げましたが、欽定訳の底本となったのは主教聖書の最終1602年版ともいわれます。
なお公認聖書を示す文言が標題紙に登場するようになったのは、二折版第三版 (1574) で、"Set foorth by aucthoritie" の一句が含まれています。第六版 (1584) では "Of that Translation authorised to be read in Churches" に変わり、1585年の第七版からは "Authorised and appointed to be read in Churches" という欽定訳にも受け継がれる表記に固定されました。この1585年二折版はまた、旧約詩篇に関し主教聖書本来の原典訳を収録しているのが特徴です(前後の版では大聖書訳)。
初期の英訳聖書はいずれも当時よく読まれたためでしょう、汚損や欠落がつきものです。教会での使用を目的として刊行された主教聖書も、完本はもとより甚だ稀れ。上掲本は旧約創世記の本文第一葉の右下隅に欠損があるものの、欠落葉はありません(ただし最初の折丁と最後の折丁とに含まれる白葉は失われています)。巻頭の標題紙と巻末最終葉とは余白が切除され貼込み、その前後数葉にも余白に補修。新約の折丁Mの六葉はかつて洗浄が施されたため、一部の本文は印字が薄く辛うじて判読できる程度になっています。これらの点を勘案しても、保存状態は良好といえるでしょう。
十九世紀後半の牛革装、背に補修。1736年の日付がある手書きの蔵書票が見返しに見られるほか、十七世紀後半と思われる旧蔵者の署名が散見します。
第三発行本には、約百六十頁に及ぶ「補遺」が加わり、その結果本文は p. 400 まで増えているばかりでなく、銅版図二葉も追加されました。とはいえ本文 p. 240 までに見られる三葉の差替えは第一発行と共通しており、ここまでは同一の印刷でしょう。第一発行本においては、本文最終頁(p. 241)と索引十一頁は六葉から成る折丁を構成していましたが、第三発行ではこの折丁から印刷を異にし、p. 242 から「補遺」が掲載されています。通常の第三発行本には索引が見られません。
上掲本にはしかし、「補遺」に続いて索引など七葉が含まれています。まず ″Additions pour server d’Eclaircissemens à quelques endroits de la Lettre sur les Sourds & Muets″ と題したタイトル葉一葉が見られますが、これは(第一発行本の購入者を対象に)「補遺」が単独で発行された際の標題紙にあたります。残る六葉は折丁 X を構成しており、第一葉表に「誤植訂正一覧」、第一葉裏から第六葉裏まで索引を掲載。索引は「補遺」のテクストまで対象とはしていないため、恐らく第一発行のそれと同内容と思われます。一方、誤植一覧には「補遺」の誤植も含まれています。アダムズは誤植訂正・索引の計六葉を含む第三発行本として、ケンブリッジ大学図書館のR・A・リー旧蔵本をあげるのみ。
「補遺」タイトル葉が含まれることから、上掲本が本来第一発行本であり「補遺」を加えて製本したものとする可能性も残りますが、誤植一覧が見られることは、むしろ初版本の発行形態としては遅い時期に属するものと考えられます。いずれにせよ興味深い書誌的特徴を持つ一冊といえましょう。
その他の収録作品は、シャトレ夫人の Réflexions sur le Bonheur, トマの Anectotes sur le Roi de Prusse, ネッケルの Du Bonheur des Sots, デュマルセによる Le Vrai Philosophe, ガリアーニの対話編 Les Femmes に匿名のLe Bon Homme。
1796年に刊行されたこの『小品集』には二種の版があり、通常見られるのは十二折版。同一の組版で割付けの異なる八折(半裁)版もあり、これについてはハーフ・タイトル葉の裏頁に “Il a été tiré quelques exemplaires de cette Édition format in-octavo, sur Papier-vélin” と明記されています。上掲はこの八折上質紙本に相当しますが、“quelques” がどの程度の稀少性を示すかについては分明ではありません。
また1741年から翌年にかけて上梓された Essays, Moral and Political では文芸・美学の領域にも踏み込み、Political Discourses (1752) では経済・政治に関する鋭い考察を展開しましたが、この二つは Treatise では予告のみに終わった「政治論」・「批評論」に該当するとも見做し得るでしょう。
Treatise 以降に発表されたこれら四著をまとめたものが、1753年の Essays and Treatises です。これをヒューム自身、自らの思惟を十全に示したいわば自選全集と考えていたことは、再版のたびに増補・改訂を重ねて1776年死去の直前まで筆を加え続けた事実に明らかでしょう。
上掲は Essays and Treatises 初版の中でも、最初の発行形態と目されるもの。この1753年版は書誌的にはもともと、四つの著作の既刊単行本をまとめ、タイトル葉を差替えて再発行したものですが、第一巻 Essays, Moral and Political については新版(第四版)の印刷が(既刊第三版のための)差替えタイトル葉の印刷に先行し、トッド (William Todd, “David Hume. A Preliminary Bibliography” in Hume and the Enlightenment, 1974) はこの新版を第一発行としています。第二巻は Philosophical Essays concerning Human Understanding 第二版 (1750) の、第三巻は An Enquiry concerning the Principles of Morals 初版 (1751) の、第四巻は Political Discourses 第二版 (1752) のそれぞれ異発行であり、各版の残部を流用して新たなタイトル葉に差替えたものです。
第一発行本の在庫が尽きるとともに第二巻以降も再版がなされています。第二巻は1755年九月に新版(第三版)が印刷され、同様に第三巻の第二版は1753年十月印刷、第四巻の第三版は1754年に上梓(第二巻第三版については翌1756年の刊記)。したがって出版者の在庫状況に応じて各巻の発行形態が混在することなり、第一発行本の四巻揃いは現存稀れです。
同時代の牛革装。やや傷みはありますが補修は施されておらず、当初の趣きを伝えるもの。第二巻には巻末にかけて軽微な水染みが見られます。
ヨアキムはその預言によって生前から高名でした。英国王リチャード一世や神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世も彼の言葉をもとめてヨアキムを訪ねたとされます。ルキウス三世から「啓示により見たままに」著述する許可を得たヨアキムは、1183年から翌年にかけてカザマーリの修道院に籠り三つの主著の執筆を開始していますが、推敲を重ねた末生前に完成されたのは、第一部にあたる『新・旧約聖書の調和について』 Liber de Concordia Novi ac Veteris Testamenti のみでした。ヨアキムの特異な釈義学と歴史神学が端的に提示されたこの著作は、教皇イノケンティウス三世の裁可を得るべくヴァティカンへ送られました。
1527年ヴェネツィアのフランチェスコ・ビンドーニが刊行したこの版は、ヨアキムの三つの主著の残る二つ、すなわち『黙示録註解』と『十弦琴』 Psalterium decem chordarum とを収録しています。『黙示録註解』は「疑いも無くヨアキムの傑作である。冗長で難解だが、しかし体系的に組織され巧みに構成された歴史神学が、聖書の最後の、そして修道院長にとっては最も深遠な巻の逐語的註解として展開されている。ヨアキムの先にもあとにも『ヨハネの黙示録』の註解は数多あり、同じぐらい長いかより長いものもあるが、ヨアキムの註解より重要なものはない」(バーナード・マッギン)。また三部作の中でも「他の二作よりやや遅く着手した『十弦琴』は聖霊降臨祭の日の幻視の産物であり、『詩篇』の註解と、三位一体の神秘に関する論考の間に位置する。ヨアキムは、御父に捧げられ、琴の形象(figura)を論ずる最初の巻をカザマーリで終えたと述べている。御子に捧げられた第二巻は『詩篇』を構成する百五十という数の神秘的な重要性を検討している。そしてごく短い、聖霊に捧げられた第三巻は詩篇の唱え方を論じている。第二巻・第三巻は二年ほど遅れて、1187年頃までに完成されている」(同上)。
ヨアキムの歴史神学は世界の歴史を父と子と聖霊の三つの時代に区分し、新たな聖霊の時代が将来すると預言することで信仰の歴史的発展を唱え、アウグスティヌス以来の終末論に見られる、閉じられた伝統的歴史観を打破するものとなりました。そしてアンチキリストが跋扈する現代を経て、新たな時代には霊的な修道会がこの世を支配することになるというヨアキムのヴィジョンは、中世の神秘主義や異端思想に甚大な影響を及ぼしたばかりでなく、近代以降も教会改革運動の重要な源泉となり続けています。
彼の歴史思想は没後直ちに広まることはありませんでしたが、十三世紀中葉フランシスコ会に伝わって先鋭化し、1256年には事実上異端の烙印を押されることとなります。聖霊派は、フランチェスコの説く清貧をついには否定しさったヴァティカンこそがアンチキリストであると断じ、ヨアキムの名を借りた多くの偽書があらわれることとなりました。
1527年版『黙示録註解』を上梓したフランチェスコ・ビンドーニとその義父マッフェオ・パジーニは、十六世紀前半のヴェネツィアを代表する印刷工房に数えられます。ビンドーニが父アレッサンドロの印刷事業を受継いだのは1523年。これがパジーニと共同の事業となるのはその翌年のことで、以後1551年まで少なからぬ刊本が世に送り出されています。彼らの商標は大天使ラファエルですが、その刊本にトビアがラファエルの手を引く木版商標が登場するのは後年のことか。1527年に刊行された本書のタイトル頁は黒赤二色刷り。三方は木版飾り枠に囲まれ、下端には司教の紋章が木版で示されていますが、同じ紋章は『黙示録註解』本文冒頭の木版飾り枠にも見られ、いずれも “F E” のイニシャルが加えられています。これは枢機卿ヴィテルボのエギディウスの紋章。本書の巻頭には編者であるアウグスチノ会修道士、シルヴェストロ・メウッチ(ないしメウッチョ)がエギディウスに宛てた献呈の辞が置かれています。教会改革に積極的だった枢機卿エギディウスはカバラに深い関心を抱いていたことでも知られますが、アウグスチノ会の精神的支柱であり1507年から総長の任にありました。
ヨアキムの著作をすべて上梓することを目指したメウッチは、1516年の『キュリロス書註解』、『エレミヤ書註解』ならびに1517年の『イザヤ書註解』をヴェネツィアのソアルディから刊行、ただしこの三つは今日いずれもヨアキムの真作とは考えられていません。さらに1519年には『新・旧約聖書の調和』を刊行しています。これらの出版の背景にはアウグスチノ会における聖堂参事会と隠修士会との対立が指摘されますが、『黙示録註解』はエギディウスの慫慂に応じて上梓されたもの。
これらのうち、『イザヤ書註解』1517年版、『エレミヤ書註解』1525年第二版、ならびに上掲『黙示録註解』1527年版については、偽書とされる Praemissiones が加えられています。それは真作『形象の書』 Liber Figurarum で展開された預言の図像化の「アンソロジー」(リーヴズとヒルシュ=ライヒ)であり、かつてはむしろ Praemissionesの方こそ真作と考えられていました。この版では二つに分け、『黙示録註解』と『十弦琴』それぞれの本文の前に置かれています。リーヴズらによれば伝存する写本では多いもので十一の図を収録しますが、刊本ではそれより少なく、三つの重なり合った輪 (fol. A3r)、Misterium Ecclesiae (fol. A3v) や七頭の竜 (A4v)、プサルテリウム (FF2r)、エゼキエルの車輪 (FF2v) の五点、それに七つの封印やトランペットなどを一頁に収めた図 (A4r) も含まれます。鷲の図も『十弦琴』の本文中に見られる (fol. LL4r) ものの、付随するテキストは写本のそれと異なります。
なお本書には日付の異なる三つの奥付があり、『黙示録註解』末尾のそれは1527年二月七日付け。『十弦琴』本文末尾では同年三月十八日、『十弦琴』目次末尾(最終葉)の奥付は同年四月十七日となっています。
同時代の牛革装、背などに補修。巻頭数葉に軽微な汚損があり、タイトル葉上部余白に補修があります。
[Together with:]
Les Oevvres morales & meslees, translatees de grec en françois, reueuës & corrigees en ceste troisiéme edition en plusieurs passages par le translateur. A Paris, par Michel de Vascosan, 1575.
ムランに生まれたアミヨはパリに学び、エヴァグリウスに師事してギリシャ語に習熟したのもこの間のことでした。ブールジュ大学で古典語教授として教壇に立ったのち、イタリアに遊学して古典のテクストを渉猟しています。ヘリオドロスの『エチオピカ』仏訳はイタリアへ赴く以前の業績ですが、江湖に迎えられ後にラシーヌへも影響を与えています。アミヨによる古典作品の翻訳は『ダフニスとクロエ』なども広く知られるものの、その筆頭にあげられるのがプルタルコスです。
『対比列伝』、『倫理論集』という二つの浩瀚な著作を訳すにあたり、アミヨは新たなオリジナルの創造を行なったといっても過言ではないでしょう。原典の逐語訳とは全く異なり、古語やラテン語、イタリア語からの妄りな借用を避けつつ、平明かつ流麗なフランス語散文を生み出すことに成功しています。二つの翻訳はフランス語に明晰さと論理性、生命力を同時に与えた業績と称えられ、アミヨがラブレーあるいはカルヴァンに比肩する存在と見做されるのもこの所以です。同時代のみならず後世においてもこの仏訳プルタルコスに対する讃辞は後を絶つことがなく、その広汎な影響はフランス人文主義が収めた最大の成功に数えられます。
フランス国王アンリ二世に献呈された『対比列伝』は上掲が初版。『倫理論集』は1572年に刊行され、二年後に八折版も上梓されています。いずれもヴァスコザンの刊行であり、上掲1575年版は改訂第三版。
ヴァスコザンによる印刷は十六世紀中葉パリ刊本の洗練美を体現した傑作です。この二つの版も木版飾り文字など装飾はごくわずかであるにも関わらず、活字のみで構成されたタイトル頁や均整のとれた版面は特筆に値しましょう。
二巻四冊は十八世紀後半のヴェラム装で統一されています。水染みなど軽微な汚損が散見するほか、『対比列伝』巻頭の折丁にやや傷みが見られるものの、総じて保存状態は良好。
「ポステルの生涯の目標は『和合』という一語で表された。これは彼の最も重要な著作の標題において鍵となるものであり、彼の思惟の基調を成すものであった。この言葉の世俗的な意味は人類の平和を指す。だがポステルにとってこの語は様々な意味が絡み合い、思想的な複合体の全体像を示すものだった。彼はその直接的な政治的意義を知りつつも、実のところは十字軍の主唱者であり、単なる世俗的な平和主義者ではなかった。『世界の和合について』は宣教師のための手引書であって、『和合』には宗教的な意味がある」(ブースマ)。
世界の改宗のための宣教計画を開陳した本書は四部からなり、哲学的論拠に基づきキリスト教の教義を根拠付けた第一部に続き、独自の翻訳による『コーラン』からの引用を数多く含むイスラーム批判(第二部)、世俗・宗教の二つの法に依拠しながら世界共通の原理を導き出し(第三部)、虚偽の信仰を平和裡に真の信仰へと変える道筋を示しています(第四部)。
「神はその愛を注ぐのに分け隔てなく、『真の宗教』もあらゆる人々を対象に含むものとなる。ポステルは普遍的な宗教と普遍的な国家の必要性を訴えた最初の人物の一人である。神のもとに統一化された世界を築こうとするポステルの計画は、『普遍主義の父』とされるジャン・ボダンの著作より二十年以上も先行するものだ」(マリオン・カンツ)。
ポステルは本書の第一部のみをパリのピエール・グロモールから1543年に自費で刊行、また一部を敷衍した小著 Sacrarum Apodixeon ならびに De Rationibus Spiritus Sancti の二点も同年に上梓しました。彼はパリ大学に本書を提出して認可を求めましたが得ることなく、バーゼルのヨハン・オポリヌスから全四部が刊行されたのは翌年のこと。
十八世紀の牛革装(背に補修)。保存状態は良好。
アリストテレス《自然学著作集》1580年版 税込 ¥220,000
アルノー/ニコル《論理学》初版 税込 ¥440,000
エラスムス《格言集》1536年版 税込 ¥400,000
ナジアンゾスのグレゴリウス《講話集》初版 税込 ¥836,000
偽フィオーレのヨアキム《教皇預言集》レジセルモ編初版 税込 ¥418,000
ユスティノス《著作集》初版 税込 ¥704,000
ニーチェ《悲劇の誕生》初版 税込 ¥660,000
トロンベタ《アリストテレス『形而上学』註解》ほか 税込 ¥528,000
紀伊國屋書店書籍・データベース営業部 yk01@kinokuniya.co.jp
総記・書誌・言語
[Together with:]
CHALMOT, J. A. de. Vervolg op M. Noël Chomel Algemeen huishoudelyk-, natuur-, zedekundig- en konst-woordenboek. Te Campen, by J.A. de Chalmot, en te Amsteldam, by J. Yntema, 1786-93.
銅板図譜百五十三葉を含む完本はかねてより稀れ。坊間に見られるものは多く本体と補遺との製本が異なりますが、上掲本は共通。保存状態は良好、第一巻前付けには予約購読者氏名一覧も含まれます。
極めて稀覯な初版。マイケル・ウッドハル旧蔵。美本。製本は十八世紀末と思われるロシア革、ウッドハルの委嘱による特徴的な製本であり、ひらにはその紋章が金箔押し。恐らくはロジャー・ペインの手になるものと推定されます。テンフォードの旧家に生まれたウッドハル (1740-1816) はウィンチェスター校からオクスフォードに進み、詩人として少なからぬ作品を発表。エウリピデス全作品の翻訳も手掛けています。その初期刊本を中心とした蔵書は高い質を誇るもので当時から垂涎の的となり、1886年に及んで競売で散逸しました。ウッドハル旧蔵書には、見返しに購入先や価格、日付、製本代金などが書き記されているものが少なくありませんが、上掲本には「完本」とのみ書き込まれています。
十九世紀半ばの名装丁家、デュリューの手になる青モロッコ装丁。極美本。
ジュネーヴでエティエンヌ自身が上梓した刊本ながら無刊記。ジュネーヴ当局の出版許可を得たのち本文に更なる修正が加えられたため、刊本における変更が発覚するとエティエンヌは訴追を免れるべく、ジュネーヴからパリへ逃れています。この初版が今日極めて稀覯なのは、書肆の在庫が当局に差押えられたためとも言われます。翌1579年ならびに1583年にアントワープの「ギヨーム・ニルグ」なる版元から十六折版再版が上梓されていますが、ルヌアールはエティエンヌが匿名で刊行した可能性を示唆しています。
十八世紀中葉の牛革装。軽微な水染みやわずかな虫損はあるものの、保存状態は総じて良好。
著者エティエンヌからの寄贈本。刊行と同年、ド・ビュロンへ与えたむねを記すエティエンヌの自署が遊び紙に加えられています。このビュロンについては未詳。上掲本を十八世紀末に手に入れたのは、エティエンヌやアルドゥスの古典的な書誌を編纂したことで知られるアントワーヌ=オーギュスト・ルヌアール。ルヌアールはそのエティエンヌ書誌で、本書には上質紙本が稀れに見られると記していますが、上掲本はまさにそれに当たります。青モロッコの洗練された現在の製本は恐らくルヌアールが為さしめたものでしょう、装丁者の署名は見られませんが、ルヌアール蔵書競売目録にはブラーデル作と明記されており、その様式から見ても確かなところと思われます。
上掲本にはさらにロバート・ホウとアンリ・ビュルトンの蔵書票が加えられています。ニューヨークのロバート・ホウ (1839-1909) はグーテンベルクの四十二行聖書ヴェラム刷りやカクストン版マロリーを筆頭とする類い稀れな(かつアメリカでは空前の)コレクションを築き上げました。彼自ら私家版として刊行した目録によれば二万一千冊、十四万点を数えます。これらは1911年から翌年にかけて四回の競売で散逸し、ハンティントンやワイドナー、ピアポント・モーガンらが蔵書の核を形成する重要な契機となりました。なお、ホウ競売目録にはルヌアール旧蔵本とあるのみで、著者寄贈本である事実は見落とされています。
後半にはアンリの父ロベールの執筆になるフランス語文法が加えられています。ロベールは Traicté de la grammaire françoise を1557年に自ら上梓しており、翌年アンリによるラテン語訳 Gallicae grammatices libellus も公刊されています。本書に収録されるのはこの1558年ラテン語版であり、書誌的には再発行にあたります。ロベールの文法書は「ローザンヌとジュネーヴでプロテスタントの外国人学生に用いられるべく書かれたものだった。ラテン語版は売行きが悪く、1582年に至ってもアンリ・エティエンヌはまだかなりの部数を在庫としていた。Hypomneses にこれを加えて(ただし二十四年も昔の刊行年を記したタイトル頁は切除したうえで)製本させるのに十分な数だったのである」(同上)。なお Gallicae grammatices libellus には1569年パリのロベール・エティエンヌ(二世)が上梓した再版もありますが、1558年版と書誌的特徴を共有するものではありません。
稀覯。十九世紀後半の背革装。
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Lingva aegyptiaca restitvta opvs tripartitvm. Quo lingvæ coptæ sive idiomatis illivs primæui ægyptiorum pharaonici, vetustate temporum pæne collapsi, ex abstrusis arabum monumentis, plena instavratio continetur. Cui adnectitur svpplementvm earvm rerum, quæ in Prodromo copto, & opera hoc tripartito, vel omissa, vel obscurius tradita sunt, noua, & peregrina eruditione contextum, ad instauratæ linguæ vsum, speciminis loco declarandum. Romae, sumptibus Hermanni Scheus, apud Ludouicum Grignanum, 1643.
すでに死語と化し、今日コプト正教会の典礼でのみ使われるコプト語は古代エジプト語の最終段階とされ、その言語学的な再構に大きな価値を持つものとして知られています。近代初期のヨーロッパにおいては未知の言語であったコプト語を古代エジプト語の末裔と位置づけ、積極的な意義を見出したのはキルヒャーの功績でした。
とはいえコプト語に注目し、本格的な研究を試みたのはキルヒャーが最初ではありません。1626年約十二年に及ぶ東方への旅を終えたピエトロ・デラ・ヴァレが将来した数多くの貴重な東洋語写本のなかに、コプト語辞典が含まれていました。すでにコプト語写本はわずかながら西ヨーロッパに伝わっていたものの辞書無しには為す術もなく、当時自然科学・人文学のパトロンとして大きな影響力を持っていたエクス=アン=プロヴァンスのペレスクは、コプト語の知識を文芸共和国にもたらすべく辞典の翻訳・刊行を目指してデラ・ヴァレと交渉します。しかしヴァレはその翻訳をフランシスコ会士トマソ・オビチーニの手に委ねました。アラビア語のみならずシリア語、ペルシャ語にも習熟したオビチーニはまさに適材というべきでしたが、1632年十一月に死去し、翻訳も未完のまま残されました。ペレスクから重ねて辞書原本を請われたヴァレの前に登場したのがキルヒャーです。
1633年ウィーンの数学教授に任命され、アヴィニヨンを出立したキルヒャーは地中海で幾度も嵐に阻まれたすえ十一月初めローマにたどり着きます。彼のヒエログリフやアラビア語に関する学識を評価した枢機卿フランチェスコ・バルベリーニはイエズス会学院の教授職を与えて厚遇し、デラ・ヴァレも翌年一月オビチーニの残したコプト語辞典の翻訳続行を依頼したのでした。アヴィニヨン在任中面識のあったペレスクはキルヒャーの博識を評価しながらも、学問的な批判精神の欠如に危惧を抱いていたため、彼がコプト語を手懸けることに対しては強い不満を隠せませんでした。ペレスクは自らコプト語辞典の写本をレヴァントから購入し、その翻訳をサルマシウス(クロード・ソメーズ)に任せて密かに競わせますが、キルヒャーの Prodromus が上梓された翌年ペレスクはこの世を去り、サルマシウスの翻訳も完成には至りませんでした。
1636年に布教聖省から上梓され、枢機卿バルベリーニに献呈された Prodromus Coptus は九章からなるコプト語研究。「コプトの語源」につづく「コプト人の習俗」と「コプト教会典礼の他国語への翻訳」では祈りの言葉がコプト語、エチオピア語のみならず、翻字・翻訳や註解とともに列挙され考察の対象となっています。第四章では長安でイエズス会士が発見した景教碑について詳細な報告を示しつつ、コプト・エチオピア教会が中近東からはるか彼方のインド、中国にまで布教をすすめていたとし、宣教師がアジア開拓のために通った経路を推察しました。キルヒャーはエジプトが遠隔地におけるキリスト教の伝播を担ったばかりでなく、同じ経路を通じて世界中に邪教を広めた淵源となったとみなしています。第五章ではコプト語こそ真正な古代エジプト語だと論じ、コプト語の神名を考察した第六章につづく第七章ではギリシャ語との親近性を語彙面から立証しています。「コプト語の有効性」に関する第八章はオビチーニがシナイ山で発見した(今日では贋作と推定される)碑文を解読する試み。最終章はキルヒャーのヒエログリフ解読手法を説明したもの。巻末 (pp. 281-332) には古典的な文法概念に基づいてコプト語を解説した簡略な文法が付されています。
七年後に刊行された Lingua Aegyptiaca Restituta はコプト語の文典と辞書。原典はアラビア語によるコプト語辞典、頁の左半分にコプト語、右にアラビア語という配列から「梯子」 sullam と呼ばれ、さらにアラビア語の文法用語を使った文法が序論 muqaddimahとして加えられた形態の写本が流布していました。キルヒャーの原本も同様で、西暦十四世紀初めのもの (Cod. Vat. Copt. 71)。この写本にはまず十三世紀に成立した五種の「序論」、すなわちアンバー・ユーハンナー・アルサマンヌーディー、イブン・カーティブ・カイサル、アルアサド・アブー・アル・ファラージ・イブン・アルアッサール 、アル・ワギー・ユーハンナー・アル・カリュービー、アル・ティカー・イブン・アド・ドゥハイリーの五人の文法書が含まれていましたが、キルヒャーは最初の二つのみを採録・翻訳しています。続く辞書はイブン・カバル(アブー・アル・バラカート)の Al-Sullam al-Kabir (Scala Magna) と、アル・ムタマン・アブー・イシャーク・イブラーヒーム・イブン・アルアッサールの Al-Sullam al-Muqaffa wa-al-Dhahab al-Musaffa との二種。いずれも重要な辞典として知られ、キルヒャーも両方にラテン訳を加えました。刊本では左からコプト語、ラテン語、アラビア語の順に配列されています。なおトマソ・オビチーニの手がけた「梯子」の翻訳手稿も現存しており (Cod. Vat. Borg. Lat. 769)、文法はアンバー・ユーハンナー・アルサマンヌーディーとアルアサド・アブー・アル・ファラージ・イブン・アルアッサール、それにアル・ワギー・ユーハンナー・アル・カリュービーの三種ですが完成したのは最初の一つだけ、また辞書もイブン・カバルの一部分のみで未完。
キルヒャーは自らのコプト語研究をもって古代エジプトの歴史を理解し、ヒエログリフ解読の資となるものと考えていました。それは Prodromus 第九章や、同書の末尾に彼が直後に取り組む大著 Oedipus Aegyptiacus (1652-4) の計画が呈示されている点にも伺われましょう。彼の想像力溢れるヒエログリフ「解読」が結局のところ成功に至らなかったことは広く知られていますが、キルヒャーのコプト語研究が二世紀後シャンポリオンの解読を導く重要な鍵となったのも事実です。キルヒャーの著書を通じてコプト語を学んでいた彼は、コプト語の単音接尾人称代名詞からヒエログリフの表音文字としての性格を類推することができたのでした。パリ国立図書館にはシャンポリオンのLingua Aegyptiaca Restituta手沢本が現存します (X.1864)。
これらの著書で用いられたコプト語活字は布教聖省が製作したもので、1630年頃活字見本帳が印刷されています (Smitskamp 194)。八頁の見本帳は、ボハイラ方言のアルファベットとそのコプト語での読み方、ローマ字転記を列挙し、さらに発音に関する注などを加えており、オビチーニが活字製作も含め監修にあたったものでしょう。キルヒャーの二つの著書はこの活字を用いて印刷した最初の本格的な刊本となりました。
ゾンマーフォーゲル、デュンハウプトのいずれも Prodromus Coptus のタイトル頁について二種のヴァリアントを区別しています。その木版ヴィニェットが献呈者である枢機卿バルベリーニの紋章となっているものと、イエスが弟子へ布教を促す長方形の木版画が飾られるものとがあり、上掲本は前者。なおこの二種に加えて、刊記の印刷者がロドヴィコ・グリニャーニに変更されているものも存在することが知られます (cf. Daniel Stolzenberg ed., The Great Art of Knowing, p. 149)。この第三のヴァリアントのヴィニェットもバルベリーニの紋章。ただし布教聖省発行本のそれとは版木を異にし、タイトルの活版文字の組版も異なります。恐らくは Lingua Aegyptiaca Restituta 刊行後、残部を再発行すべくタイトル葉が差替えられたのでしょう。
二巻いずれも稀覯、ことに Lingua Aegyptiaca Restituta はゾンマーフォーゲルの言によれば「キルヒャー神父の著作の中でも最も稀覯なものの一つ」。同時代のヴェラム装、余白にわずかな虫損や汚れなどは見られますが、保存状態は良好。
ジャコブ《図書館論》初版 税込 ¥154,000
ユニウス《英語語源辞典》初版 税込 ¥264,000
ルフェーヴル《トロイ歴史集成》ケルムスコット版 税込 ¥1,100,000
マインホルト《魔女シドニア》ケルムスコット版 税込 ¥220,000
クランヴォウ《花と葉》ケルムスコット版 税込 ¥264,000
フロワサール《年代記》ほか・ケルムスコット版見本刷コレクション 税込 ¥4,400,000
ロストレナン《ケルト語辞典・ケルト語文法》初版 税込 ¥308,000
紀伊國屋書店書籍・データベース営業部 yk01@kinokuniya.co.jp
東洋・日本
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Ars grammaticae iaponicae lingvae. Romæ, typis & impensis Sac[rae] Congr[egationis] de Propag[anda] Fide, 1632.
ザヴィエル以来の日本布教は宣教用の日本語文献を生み出すと同時に、宣教師の日本語に関する知識の蓄積をも促しました。イエズス会の手で日本に持ち込まれた活版印刷機による出版物、すなわちキリシタン版はこれら二つの成果を具現化したものといってよいでしょう。後者に関する刊本としては1594年のアルヴァレスによる天草版文典をはじめ、羅葡日対訳辞書 (1595)・日葡辞書 (1603-4) といった優れた辞典やロドリゲスの日本文典 (1604-8) をあげることができます。1620年マカオで上梓されたロドリゲスの小文典や、マニラで刊行された日葡辞書のスペイン語訳 (1630) もこの一群に含めてよいでしょう。これらは国字本キリシタン版とあわせて、十六世紀末の日本語資料として極めて重要な存在となっています。
コリャードの辞書と文典は、イエズス会による一連の業績に多くを依拠する一方で、さらに独自の日本語理解を加えた労作です。著者ディエゴ・コリャードはスペインのドミニコ会士。1589年頃ポルトガルと国境を接するエストレマドゥラのミアハーダスの生まれといわれます。1605年誓願を立てたのち東方への布教を志し、アロンソ・ナバレテの宣教団に加わって1611年マニラに到着。ミンダナオで宣教活動に携わっていた彼は1619年日本に派遣され、七月末長崎に着任しました。目覚しい速さで日本語を習得したことは半年後オルファネールが書簡の中で証言しています。コリャードの布教活動は長崎・有馬・大村に限られたものの、その傍らオルファネールの『日本教会史』執筆に協力し(マニラに現存するその稿本は大半がコリャードの筆跡になるとされます)、さらに1621年には管区長代理に任ぜられました。翌年には1597年長崎大殉教の犠牲者に対する列聖・列福のための調査を教皇から委ねられ、これが完了すると1622年十一月日本を離れ、マニラを経由してローマに向かいました。
ヴァティカンでのコリャードは1622年一月に創設されたばかりの布教聖省を舞台に、イエズス会の日本布教に対する激しい批判を展開しました。ポルトガルとスペイン、あるいはイエズス会とドミニコ会という対立の構図が根底にあったのも事実ですが、日本の教会統治に対するコリャードの見解は、世界各地の布教を一元的に管理すべき布教聖省の賛同を得ています。1632年に布教聖省印刷局から彼の日本語研究が刊行されたのも、布教聖省のコリャードに対する信頼と好意の証左と見ることができるでしょう。
1626年設立の印刷局が刊行した布教用の文献には、「主の祈り」など典礼文・教義の各国語訳のほか、ラテン語で書かれた諸言語の文法・辞書が重要な部分を占めており、アブラハム・エッケレンシスの袖珍本シリア語文法(1628年)を皮切りに、マリアヌス・ヴィクトリウスのエチオピア語文法(1630年)、オビチーニのアラビア語文法(1631年)などが上梓されました。これらはいずれも小型の版型による出版で、四折版はマレー語辞典 (David Haex, Dictionarium malaico-latinum et latino-malaicum, 1631) が最初のものか。合計三百五十余頁に及ぶコリャードの辞書は、布教聖省印刷局の刊本としてはかつてない規模のものだったといってよいでしょう。同じ四折版の文典のほかにも、日本語文例集として『懺悔録』も同時に刊行され、これらは三部作とも見做されます。
コリャードの羅西日辞書は本編と補遺 (Praetermissa)、さらに続編 (Additiones) の三部から成ります。彼自身の手になる西日辞書稿本がヴァティカンに残され、これは本編の部分に概ね該当。続編はアンブロジオ・カレピーノのラテン語辞典の見出し語を列挙し、それにスペイン語と日本語の訳語を排列したもの。これはラテン語からそれに対応する日本語の語彙を検索するために加えられたと考えられます。三つの部分はそれぞれ複雑な成立過程を経ていますが、いずれも他著からの単純な引き写しなどではなく、多くの日本語文献を参照しながら独自の編纂が成されたものです。
日本文典は四折版三十八葉、七十五頁。コリャードはロドリゲスの日本大文典に基づきながら、より明瞭で簡潔な記述を目指すとともに、宣教師が実際に日本語を使用する場面を想定し、口語表現を豊富に取り入れています。また日本語の構造を意味論的に理解している点はコリャードの特徴としてあげられましょう。
これらの著書の中でコリャードが、彼以前には無視されていた日本語の鼻濁音やアクセントをも表記しているのは注目に値します。もとより「宣教師が会話をするための教本」という意図のもとになされた表記である以上、これが当時の日本人の発音を忠実に再現したものと直ちにみなすことはできないものの、今後の研究によってコリャードの辞書・文典から新たな発見がなされる可能性は十分に考えられるでしょう。
かつてはコリャードの貢献に対し不当に低い評価しか与えられていませんでした。イエズス会の日本語研究に材料を負うことは「剽窃」と見做され、わずか三年の滞在で彼がどれほど日本語を知り得たのか疑問視されたことも少なくありません。しかし実証的な研究はむしろコリャードが高い言語能力と強い記憶力の持ち主だったことを明らかにしています。独力でイエズス会の業績に比肩する日本語研究を目指した、その志もまた瞠目すべきものです。
製本は十七世紀後半、英国でなされたものと思われます。背に補修。本文用紙に軽微な変色はありますが保存状態は良好。
訳者は後年オクスフォード大学サンスクリット講座教授に就任し、王立アジア学会の創立メンバーの一人ともなったホラス・ヘイマン・ウィルソン。ロンドンの聖トマス病院で医学を学んだウィルソンは、東インド会社のベンガル支部に外科医として赴任。化学・金属についての豊富な知識をかわれて造幣局に勤務する一方、ウィリアム・ジョーンズの影響を受け余暇をサンスクリット文学の研究に費やしています。本書はその最初の成果であり、サンスクリット辞典と並んで英国におけるインド学興隆に大きな寄与を果たしたウィルソンの主著。韻文訳と原文は豊富な脚注とともに対訳で示されています。
カルカッタ刊本。稀覯。巻頭二葉の余白に補修はありますが、保存状態は良好。
『英華字典』は近代漢語の形成に大きな影響を及ぼした著作として広く知られるものですが、本『文法』もまたロプシャイトの中国語研究として重要な業績であり、ことにその広東語についての深い理解が示されている点で注目に値します。第一部は音韻論と品詞論、これに先立つ序論では漢字に関する概説に加え、アメリカインディアンは日本人・北東アジア人と人種的に共通だとする説も述べられています。第二部は統辞論につづき広東語の解説。さらに読解練習用のテクストが対訳とともに収録されており、ここでも広東語の文章が加えられています。
上掲は著者手沢本。製本の際第一部本文の各葉ごとに白紙が挿入されています。この白紙は著者が修正増補を書き記すためのものですが、実際のところロプシャイトは本文にそのまま修正を書き込んでいます。第二部には書込みは見当たりません。また1873年に書かれたロプシャイトの自筆書簡二信が巻頭に添えられており、著者の自用本が読者の手にわたった経緯が判明します。第一信には「中国語文法は私の手元に一冊あるだけです・・・。辞典の方は分かりませんが、三ヶ月程度で安く手に入るでしょう」と記してあり、送金方法についても記してあります。「最後の一冊」が新品ではなかったことに気付いた読者からの手紙に答えて、第二信では「お送りしたのは再版のために残してあったものです。もはや中国へ行くこともなく、別の場所でこれを印刷させることもできそうにありません」と手放した理由を述べています。
同時代の製本。惜しむらくは第一部序説中三葉に虫損があり、一部の文字に欠損が生じています。また第二部最終葉に破れが見られますが判読に支障はありません。
ロイド夫妻の英訳は “re-written” とあるように忠実な翻訳ではなく、華麗な修飾辞を刈込みながらも原文の気息を伝えようとするもの。筋は細部までほぼ省略もなく、当時日本で最大の人気を誇った文学作品の魅力を極力英語話者に伝えようとする意志が伺われましょう。前編から続続編のみならず、「続々金色夜叉続編」全三章に至るすべてを訳出している点も注目に値します。
有楽社が上梓した英訳は計三冊からなり、第一巻(明治三十八年十二月)は前編(Book 1十四章)と中編(Book 2 二十章)。第二巻(明治四十年一月)には後編(Book 2 第二十一章から第四十章)。第三巻(明治四十二年五月)は続編(Book 3 第四十一章から第五十八章)、続続編(第五十九章から六十六章)と、「続々金色夜叉続編」の翻訳(第六十七章から第七十章)。第一巻にはロイドの序文が付されています。
なお国会図書館が所蔵する内交本では、第二巻・第三巻の奥付に記される印刷・発行月日に異同が見られます。新たな年月日を刷った紙片を重ね貼りして修正したもので、恐らくは「内務省への納本は発行日の三日前」という規則に合わせるため。
初版三巻揃いは稀少。原装本、各巻の背に傷み。また第二巻の表表紙が外れていますが、あえて補修は行っていません。
1704年リヴォルノを出港したカプチン会第一次チベット布教団のうち、ジュゼッペ・ダ・アスコリとフランソワ・ド・トゥールの二名が1707年六月にラサに入り、医療に従事しながら布教活動をはじめたものの、物資の窮乏に苦しみ、二年後には引揚げを余儀なくされています。オラツィオらは1713年九月シャンデルナゴールに到着し、パトナを経由してネパールへ向かったのは翌年末のこと。第二次布教団のドメニコ・デ・ファーノと合流してラサに到着したのは1716年十月でした。半年前にこの地に到達していたイエズス会士デシデリに面会したのち、セラ僧院でチベット語を学びはじめています。活動は順調に開始したかのようでしたが、翌年にはジュンガルのラサ侵攻によって住居を失い、1720年清朝がチベットを平定するまで、宣教師たちは困窮の底にありました。その後十年余の間に、ダライラマ七世にも認められ教会も建立するなど布教も盛んになったものの、再び多くの困難に直面したオラツィオは、布教団総監として1732年八月ラサを発ち、ローマへの旅に向かいました。
オラツィオはローマでチベットと布教活動の状況とについて報告し、これに基づいて布教聖省のフィリプス・デ・モンティブスがまとめた布教報告 Alla Sagra Congregazione de Propaganda Fide deputata sopra la Missione del Gran Thibet rappresentanza de’ Padri Cappucini Missionari dello Stato presente della medesima (1738) が刊行されました。上掲はそのドイツ語訳ですが、多くの増補を加えつつ再構成が施されています。二部から成る第一部はチベットとその宗教について記し、第二部はカプチン会による布教の歴史を述べ、宣教師からの書簡や文書類も豊富に収録しています。第一部に見られる銅版挿図二葉(うち一つは曼荼羅)も恐らくは本書のために製作されたものでしょう。
オラツィオ・デッラ・ペンナ・ディ・ビリの著作としては三万五千語に及ぶチベット語辞典稿本が有名です。彼の仏教に関する知識はデシデリに一籌を輸するとはいえ、本書はカプチン会のチベット布教に関する同時代の文献として最も浩瀚なものであると同時に、チベットと彼の地の仏教に関する当時のヨーロッパにおける最も重要な情報源です。
同時代の豚革装。本文に軽微な水染みあり。
ドイツ・ロマン派の勃興に大きな功績を残し、美学的考察によってその理論的支柱ともなったアウグスト・シュレーゲルが、パリでサンスクリットをシェズィに学んだのは1816年から翌年にかけてのこと。シュレーゲルはそれまでの研究を放擲してこれに熱中し、わずか数ヶ月で習熟したと伝えられます。スタール夫人がこの世を去った翌年、1818年十一月にボン大学の文学・芸術史教授として迎えられますが、1820年には再びパリへ、1823年にはロンドンへ赴き、インド研究に没頭します。その成果は彼自ら編纂した Indische Bibliothek やパリで発表された数多くの論文をはじめ、『バガヴァッド・ギーター』(1823年)と『ヒトーパデーシャ』(1829-31年)、そして本書に結実しました。これら三つの編本は、シュレーゲルが写本にもとづいて校訂したサンスクリット原典にラテン語訳が付されています。
シュレーゲルが『ラーマーヤナ』予約購読を募る趣意書を出したのは1823年のことです。彼が対校に用いたサンスクリット写本は、英国東インド会社の学院が所蔵する四種、ロンドンの王立学会にあるジョーンズ旧蔵本三種、パリの王立図書館の写本三種、さらに英国東インド会社のジェイムズ・トッドがラジャスターンから持ち帰ったばかりの写本も加えられました。
シュレーゲル版は、『ラーマーヤナ』のサンスクリット原典をヨーロッパで刊行する最初の企図でした。シェズィが1814年に一部の抜粋を出版したのが唯一先行する刊本であり、インドでもセランポールのバプティスト会が第一・第二巻の原典と英訳を1806年から1810年にかけて上梓しているものの、1812年の印刷所火災で続刊は潰えています。各巻は二分冊からなり、第一分冊にサンスクリット原典の校訂テクスト、第二分冊にラテン訳を収録。趣意書から六年後の1829年にようやく刊行された第一巻第一分冊は、原典第一巻(七十七章)と第二巻の最初の二十章とを収録。そのラテン訳である第一巻第二分冊、ならびに第二巻第一分冊(原典第二巻第二十一章から百十五章を収録)は1838年の刊行。残念ながらシュレーゲルはこの三分冊以降の上梓を果たすことができませんでした。トリノのガスパーレ・ゴレシオが1843年に刊行をはじめた原典版(ベンガル本)が1867年にようやく完結し、はじめてこの大作の全貌が西洋で知られることになります。ゴレシオが平行して進めたイタリア語訳は1870年に最終巻刊行。その間フランスではイポリット・フォーシュの縮約仏訳本も登場しています(1855-58年)。
刊行途絶の憂き目を見たとはいえ、シュレーゲルがゴレシオ版とも異なる北インド系統の本文を採ったことは興味深い点です。また西洋古典学に培われた本文批判の方法をインドの大規模な古典作品に適用したことも注目に値しましょう。ラテン語訳はさらに短い部分しか発表されませんでしたが、流麗な訳文はギリシャ・ラテンの古典的叙事詩との鮮やかな対比を形作っています。
ここで用いられたサンスクリットの活字は1821年、パリで王立図書館所蔵の写本からシュレーゲル自身が制作したもの。1825年にはパリのアジア学会もシュレーゲルの活字を購入してサンスクリットの活字印刷をはじめています。なお第一分冊の印刷者はトルマンでしたが、1838年の二分冊はカール・ゲオルギに代わっています。 上掲本は当時ミュンヘン大学助教授であった弟子、フリードリヒ・ヴィンディッシュマンへ宛てた著者寄贈本。第一巻の白紙に大書された自筆の献辞には1839年四月の日付が見られます。フリードリヒは東洋思想史を論じた Die Philosophie im Fortgang der Weltgeschichte (1827-34) の著者カール・ヨゼフ・ヒエロニムス・ヴィンディッシュマンの子。ボン大学でシュレーゲルとラッセンに師事してシャンカラ研究(1832年)を纏めた彼は、敬虔なカトリック神学者として活躍する一方、ゾロアスターなどの古代ペルシャ研究で有名です。
稀少な三冊揃。製本は改められているものの余白は裁断されておらず、第一巻第二分冊のタイトル葉と巻末、ならびに第二巻第一分冊の巻末には、余白に1837年十一月七日付けの ‘Imprimatur’ が手書きで記されています。
アンクティル=デュペロン《ゼンド=アヴェスタ》初版 税込 ¥726,000
アッセンデルフト・デ・コーニング《日本滞在記》初版 税込 ¥528,000
ベッカー《生け花》初版 税込 ¥176,000
ビゴー《おはよ》初版 税込 ¥308,000
ブランチャド《日本旅行記》初版 税込 ¥110,000
シェジー《王立学院サンスクリット講座開講講演》ほか 税込 ¥990,000
シェイス《日本開国へのオランダの努力》初版 税込 ¥396,000
コールブルック《サンスクリット文法》初版 税込 ¥880,000
ファン・ダイク《ファン・ベルヘムの六年間》初版 税込 ¥176,000
ファーガソン《木と蛇の信仰》初版 税込 ¥484,000
フェルナンデス・ナバレテ《中国の歴史・政治・道徳・宗教に関する論集》初版 税込 ¥1,100,000
ハミルトン/ラングレ《王立図書館サンスクリット写本目録》初版 税込 ¥330,000
ハミルトン編《ヒトーパデーシャ》初版 税込 ¥550,000
リューペ編《フリースの北東日本探検》初版 税込 ¥330,000
メイラン《日本》初版 税込 ¥880,000
パラフォクス・イ・メンドーサ《中国征服史》英訳初版 税込 ¥330,000
パウリヌス・ア・サンクト・バルトロメオ《サンスクリット文法》初版 税込 ¥220,000
パウリヌス・ア・サンクト・バルトロメオ《バラモン教》初版 税込 ¥396,000
パウリヌス・ア・サンクト・バルトロメオ《東インド旅行記》初版 税込 ¥220,000
パウリヌス・ア・サンクト・バルトロメオ《東インド旅行記》仏訳初版 税込 ¥792,000
プティジャン《口宣》初版 税込 ¥220,000
ポコック《東洋誌》初版 税込 ¥1,540,000
レミュザ《漢文啓蒙》初版 税込 ¥220,000
トゥンベリ《日本動物誌》初版 税込 ¥440,000
トリゴー《日本殉教史》初版 税込 ¥1,980,000
ウィルキンズ訳《ヒトーパデーシャ》初版 税込 ¥176,000
ウィルキンズ《サンスクリット文法》初版 税込 ¥440,000
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芸術
《バウハウス壁紙見本帳》コレクション:1939年版
1932,1936,1939年版の3点セット価格のみ掲載
《バウハウス壁紙見本帳》コレクション:1932年版
3点セット価格のみ掲載
《バウハウス壁紙見本帳》コレクション:1936年版
3点セット価格のみ掲載
ラッシュ兄弟社の創立は1897年ハノーヴァー、さらにその淵源は1861年に創設された壁紙印刷工房に遡ります。1905年火災のためブラムシェに移転した後も社名にHannoversche Tapetenfabrik の語を冠していましたが、現在もブラムシェを本拠とする壁紙の大手生産者として知られます。バウハウスとの壁紙制作が大成功を収めて以来、マリア・マイの作品や、分離派の領袖として知られたヨーゼフ・ホフマンが監修したシリーズ、第二次大戦後はさらにサルバドール・ダリをはじめとする多数の現代作家のデザインによる壁紙を生み出しています。
ラッシュ兄弟社とバウハウスの媒介となったのは、当主エミール・ラッシュの姉マリアでした。マリア・ラッシュ (1897-1959) は1919年から1923年までバウハウスに在籍し、カンディンスキーとファイニンガーに師事。前者の工房で壁装制作を手がけ、卒業後はベルリンでグロピウスの建築事務所に勤務しました。オスナブリュックに帰ってからも制作活動を続けますが、実家の作る壁紙デザインが旧態依然であることから、良質な無地のデザインをバウハウスへ委嘱するよう弟に勧めます。エミールはバウハウスの壁装工房主任ヒンネルク・シェーパーから1929年一月デッサウに招かれると、ここで校長マイヤーを交えて壁紙制作の契約に向けた交渉が開始されました。十四項から成る契約が結ばれたのは同年三月のこと、バウハウスはこの年およそ十二種の壁紙デザインを提供する手はずとなりました。
デザイン案はバウハウスの学生から募り、第一回のコンペティションではハンス・フィシュリ (1909-1989) が一等・二等を獲得、三等はマルガレート・ライテリッツに与えられています。ライテリッツはラッシュ兄弟社での壁紙生産に際しても色調整や製作の監修にあたり、最初のコレクションが販売に至ったのは1929年九月のことでした。翌1930年には、油性インクを用いたグラビア印刷をドイツで最初に使用した、より耐久性が高く防水効果もある壁紙を開発しました。壁紙は折からの宅地開発ブームに乗り、バウハウス製品の中でも最大の商業的成功を獲得しています。最初の二年で販売した壁紙は、百十七万本(延べ約八百八十万メートル)に及び、1930年には一万三千ライヒスマルクの収益をバウハウスに齎しました。これがバウハウスの重要な収入源となったことは言うまでもないでしょう。
モダニズムを敵視したナチスがデッサウの市議会を掌握しバウハウスに閉校を迫ると、マイヤーの後任ルートヴィヒ・ミースはベルリンへの移転を挙行したものの、1933年四月にはゲシュタポによって封鎖され、七月にはミースと教授会がバウハウスの正式な閉鎖を決定しました。この年の四月二十七日にラッシュ兄弟社とミースは新たな契約を交わし、六千ライヒスマルクでラッシュ兄弟社は壁紙に関して「バウハウス」の名称使用権を獲得しており、その後もバウハウスの壁紙はラッシュ兄弟社の重要な商品となっています。バウハウスが直接デザインしたものではないとはいえ、バウハウスの美学とデザインの基本概念を忠実に受継いだ作品であり、このデザインを世界に広めた点で大きな貢献を果たしたといってよいでしょう。
バウハウス壁紙の販売に際しては、顧客が商品を選択するためにサンプルを綴じ込んだ見本帳が準備されています。各見本の裏側にはカタログ番号がスタンプで記されており、表紙とともに鋲留め。価格表は表紙裏に貼付ないし綴じ込まれていますが、各見本の裏側に直接記されているものもあります。またドイツ各地の小売業者の社名や電話番号などが表紙に印刷で加えられているものも見られます。ヴィンクラーのバウハウス書誌は見本帳が1930年、1931年、1932年、1933年に刊行されたとし、「1934年以降バウハウスの壁紙はラッシュ社のスタジオでデザインされた」と記しています。
A.1932年版
Oblong 8vo, one hundred twenty eight leaves of wallpaper samples (154 x 232 mm) together with an offset leaf of advertisements (with “Das Bauhaus in Dessau” photograph printed on verso) and one leaf of letterpress price list mounted on verso of front cover, stabbed with two metal rivets, blue board covers and white cloth spine; “bauhaus 32” lettered on front cover and “Bauhaus” on spine; dealer’s name stamped on the price list, advertisement leaf and the fly-leaf (Emil Meyer / Stuttgart); covers soiled and rubbed, corners worn, rivets somewhat rusted, each sample leaf has stamped numbering on verso, four leaves partly trimmed (b28B, b28E, b28J and b29G), light dampmarks on top edge throughout, enlarged on the last sample leaf and rear cover, some light foxing and discolouring, but otherwise a nice copy.
バウハウスによる三冊目の壁紙見本帳。表紙裏に貼付された価格表は1932年二月一日付け。収録するサンプル百二十八点は、カタログ番号で b28 (A-H, J, K-P, R); b29 (A-H, J, K-M); b5 (M, A-F, H, J); b4 (N, A-H, J, Q, P, L, O, M); b30 (A-E, G, H, J, K); b16 (A-H, J, K); b31 (A-G, J, K); b8 (L, A-E, G, H, J, K); b9 (B-D, J, K-M); b6 (P, A-F, L, J); b17 (A-H, J, K); b32 (A-H, J, K, L, M)。価格表に記載があるものは二百五十種以上を数えるので、およそ半分程度ということになりますが、上掲本における選別が共通のものであるのか、あるいは小売店の希望に応じたものなのかは未詳。見本中四点に一部切除があり、各見本の上端に軽微な水染みが見られます(最終葉では汚損が上半分まで広がっています)。
原装。シュトゥットガルトの販売店名がスタンプで見返しなどに押されています。
B.1936年版
[Bound with:]
Weimar-Tapeten 1936. [Bramsche, Gebr. Rasch, 1936].
Square 8vo, two works bound in one; Bauhaus catalogue contains 45 leaves of wallpaper samples (234 x 234 mm) numbered and priced on verso of each sample, one leaf of advertisement and one leaf of coloured frontispiece; Weimar catalogue with 18 leaves of wallpaper samples and one leaf of letterpress advertisement printed in red and black; stabbed with three metal rivets, vermilion board covers and white cloth spine; title (“Bauhaus 36 / Weimar Tapeten”) and dealer’s name (Gebr. Borchers / Magdeburg) lettered on front cover; light dampmark to the front cover, covers lightly dustsoiled, mild browning throughout, but overall a very good sound copy.
ラッシュ兄弟社が独自にバウハウスの壁紙制作をはじめて三年目となる1936年の見本帳。型番ならびに価格は各見本の裏にスタンプで押されています(ライヒスペニヒないしライヒスマルク)。収録するバウハウスの壁紙は四十五点で、B71 (D, N); B68 (C, J, E, D); B69 (H); B76 (D, C); B64 (K, M, G, J); B72 (J, L, K); B77 (A, C, E); B62 (D); B73 (D, C, E, A); B75 (B, F); B70 (D, L, M, K, F); B47 (E); B63 (D, L, M, J, C); B74 (H, J); B4 (T); B55 (D, H, L, O, B)。
この見本帳はラッシュ兄弟社が扱っていた別の壁紙シリーズ「ヴァイマール・タペーテン」との合本で、その見本十八点もあわせて収録。この「ヴァイマール」シリーズはナチスの御用建築家で、バウハウスの後に創設されたヴァイマール高等工芸学校の校長、パウル・シュルツェ=ナウムブルクのデザイン。こちらもラッシュ社としては1934年以来三年目となるものです。モダニズムを容赦なく批判したシュルツェ=ナウムブルクは、本来バウハウスと全く相反する立場にあったことは明らかですが、ラッシュは二つのコレクションをあえて一緒に提示することで「経済的・政治的にもバランスを保ち、バウハウスの壁紙が第三帝国を生き延びただけでなく、『バウハウス』という概念がこの時期にも存在しえたのだった」(クリスティアン・ヴォルスドルフ)。
原装、表表紙にはマグデブルクの販売店名が商標とともに印刷されています。
C.1939年版
Oblong 8vo, one hundred eleven leaves of wallpaper samples (154 x 235 mm) together with a letterpress leaf of advertisements and price list, stabbed with two metal rivets, green board covers and white cloth spine; “Bauhaus” lettered on front cover and on spine; dealer’s name and address lettered on front cover (Rudolf Westphal Nachf. / Inh. Paul Dehne / Weimar); covers soiled and lightly rubbed, lower corners worn, rivets lightly rusted, joints worn at head and tail; each sample leaf has stamped numbering on verso, two leaves partly trimmed (B035-3 and B033-6), several with minor rust soils, edges foxed, occasional light spotting, but overall a good sound copy.
バウハウスの壁紙制作が十周年を迎えた年の見本帳。見本百十一点を収録。カタログ番号で、B032-1/8; B029-1/6; B031-1/5; B035-1/6; B022-1/10; B021-1/8; B037-1/4; B024-1/7; B030-1/5; B033-1/6; B038-1/6; B026-1/5; B027-1/6; B036-1/6; B023-1/8; B028-1/7; B034-1/8。巻頭に挿入された価格表には B025-1/5 の記載も見られますが、上掲本にサンプルは収録されていません。見本中二点に一部切除あり、六点に軽微な汚損。
原装。表表紙にはヴァイマールの販売店名が示されています。
巻頭の銅版十一点は1814年単独で刊行されており(Cf. Colas 1771)、その標題によれば1811年から翌年にかけて写生されたもの。この1814年版は Journal des dames et des modes と同じくモンマルトル通り百八十三番から、すなわちラ・メサンジェールの手によって刊行されています。彼がランテ、ガティーヌという屈指の名工に作らせた服飾図譜には、Galerie française de femmes célèbres (1827) や Costumes des femmes de Hambourg (1827) があり、コーの服飾図譜も同じく1827年、ラ・メサンジェールの執筆した四十六頁の解題とともに Costumes des femmes du Pays de Caux, et de plusieurs parties de l’ancienne province de Normandie と題して刊行されています。
上掲はこの Costumes des femmes du Pays de Caux の改題異発行本。ここでは解題が削られ、元版の銅版口絵が標題紙に改められていますが、百五葉の銅版図譜は同一。コラも二種の図譜が質的に等しく、刷りを異にするものではないとしています。刊記には出版年が記されていませんが、書肆デュラン・エネは1832年に Galerie française de femmes célèbres の再発行本を刊行していることから、上掲本もその前後に出たものでしょう。元版を刊行したラ・メサンジェールが1831年にこの世を去っていることから、没後に売却された残部からこれらの異発行本が制作されたと考えられます。ただし Galerie française に記されるデュラン・エネの住所は “Boulevard des Capucines no. 1” となっており、上掲本刊記の “Rue de la Paix, 4 (bis.)” とは異なっています。
デュラン・エネ発行本にはカンの書肆マンスルの名を出版者として併記したものもありますが、上掲本はデュランのみをあげています。なお印象派の画商としてあまりにも有名なデュラン=リュエルの父がリュ・ド・ラ・ペ一番地にギャラリーを開いたのは1850年代のこと。彼は1843年から1846年の間にもこの通りに店を構えていましたが、この画商兼文具商と「デュラン・エネ」との関係は未詳です。
製本は近年の半革装。一部の余白に軽微な汚損も見られるものの、図譜の保存状態は良好。
多色刷り石版印刷は英国でも十九世紀後半に大いに流行していますが、初期のそれは色彩の表現力が十分ではなく、この図譜もピュージンの原画に比して大いに遜色があるとも伝えられますが、当時の美術・装飾の現場に伝えられ、強い影響力を持ったピュージンの作品がこの多色刷り石版に他ならなかったこともまた事実でしょう。
ロンドンの Government School of Design (現在の Royal College of Art)が1842年に刊行したDrawing-Book に含まれるウィリアム・ダイスの作品も植物を主題としており、ステュアート・デューラントは本書のデザインが、ダイスの剽窃であると非難しているものの、ローズマリー・ヒルは表面的な類似に過ぎないとしてこれを退けています。
図譜の用紙に軽微な変色や汚損が散見しますが総じて保存状態は良好です。モロッコ革の背革装は出版社による原装。ひらの四隅と中央とにそれぞれ花模様の金箔押しが施されています(ただしそのデザインは本書に由来するものではありません)。
欧米の図書館における所蔵は少なくないものの、坊間では今日稀少。なお1875年になってチャトー・アンド・ウィンダスが上梓した再版もありますが図版の刷りは劣ります。
マルセル・ジャンコの木版挿画七点(うち六点は青・黒の二色刷り)。なお本文がオランダ紙、挿画に手彩色の入った特装本が限定十部のみ上梓されていますが、ツァラ自身の蔵書も普通紙本でした。表紙の価格は空欄のまま印刷され、チューリッヒ美術館所蔵の一本では、「1」フランと書き込まれていますが、上掲本ではその部分にいったん書かれた「2」を消した上に改めて「3」と書かれています。なおツァラ自家本にはこの部分にスイスの郵便切手が貼られています。
極めて稀覯。保存状態良好の優れた美本。
エマソン《自然主義写真》初版 税込 ¥220,000
モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》総譜初版 税込 ¥330,000
ヴァーグナー《ローエングリン》ヴォーカルスコア初版 税込 ¥77,000
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補遺
[Together with:]
Cours d’économie politique fait au Collège de France. Troisième volume. La monnaie. Paris, Capelle, 1850.
シュヴァリエの経済学講義録は、1841・1842年度の内容が1842年に、また翌1842・1843年度のそれは1844年に、それぞれパリのカペルから公刊されています。さらに毎年度の開講講義に関しては、Journal des Economistes に1852年まで掲載されました。
カペルは1855年、「第一巻」すなわち1841・1842年度講義の第二版を上梓していますが、第七講義以降の本文を改訂・整理し、全十三講(1842年版は十五講)とする一方、1852年までの毎年の開講講義をあわせて巻頭に収録しています。1858年の「第二巻」でも本文には随所に手が加えられ、1844年版の全二十五講が二十七講に変更されました。
上掲のセットは経済学講義の改訂版二巻に、1850年に発表された「第三巻」貨幣論の初版が加えられたもの。同時代の製本は三巻揃い。貨幣論の第二版は1866年に出版されているので、それ以前に購入した読者の旧蔵書と推測されます。
なお本書についてはブリュッセル版が当時複数流布していますが、これらはいずれも海賊版。
アリストテレス《オルガノン》グルシ改訳1553年版 税込 ¥880,000
アリストテレス《ニコマコス倫理学》グルシ改訳1560年版 税込 ¥660,000
アリストテレス《自然学》ほか・グルシ改訳1562年版 税込 ¥440,000
アリストテレス《政治学・経済学》ストレバエウス訳 税込 ¥330,000
ビューイック《英国鳥類誌》初版 税込 ¥264,000
ブラウニング《二つの詩》初版 税込 ¥44,000
シュヴァリエ《経済学講義》著者手沢本と稿本 税込 ¥495,000
《ダダの遠足》 税込 ¥275,000
ブラウニング《逃亡した奴隷とピルグリムの上陸地》フォーマン=ワイズ偽造本 税込 ¥176,000
モリス《社会主義者のための歌》初版・フォーマン製表紙付き 税込 ¥220,000
ロセッティ《姉ヘレン》フォーマン=ワイズ偽造本 税込 ¥264,000
ロセッティ《詩集》フォーマン=ワイズ偽造本 税込 ¥220,000
フロスト《科学的水泳法》初版 税込 ¥528,000
グラス《完全な菓子職人》初版 税込 ¥550,000
ハーン《クレオール料理》初版 税込 ¥528,000
ハーニス《習漢英合話》初版 税込 ¥396,000
《ドイツ式体操法》初版・ほか二点 税込 ¥528,000
マラン《コーモスの贈り物》初版 税込 ¥352,000
マーティン《認字新法常字双千》初版 税込 ¥440,000
レミュザ《中庸》初版 税込 ¥275,000
トゥンベリ《日本動物誌》1822年初版 税込 ¥440,000
紀伊國屋書店書籍・データベース営業部 yk01@kinokuniya.co.jp